2000年2月20日日曜日

CATS

猫たち


やんちゃな,くろべえ.

1996年,市原の海釣り公園でものすごく人懐こかったので,つれてきた.
他の猫に嫌がられても,めげずに遊ぶ.






おっとり,えるぶ.しつこいくろべえが苦手.

1994年,父の実家でもらった.牛の背中や,秋田犬の犬小屋が昼寝場所だったので動物病院で大型動物に会ってもなんとも思わない.
でも,ちょっと神経質.






目だけ見えるのが,かわいい.












爆睡えるぶ













1994年に生徒からもらったミント.
一番きれい好きで手のかからない子だけれど,性格はきつくて,しつこいくろべえに反撃.







「まぶしーよー」

2000年2月17日木曜日

常識

常識の正当性については常に意識をせねばならぬと思う.あらゆる常識は一度は思索の俎上に乗せるべきである.その結果「よい常識」を残していけばいい.「若さ」というものはすべての常識を覆すエネルギーだと思うが,その結果破滅しては意味がない.
同じ常識的生活をしていても「無批判に受け入れている」と「思索の結果,常識を受け入れた」では雲泥の差.私は後者でありたい.

2000年2月8日火曜日

好き嫌い

味に鈍感である.味覚の鈍感さに関して妻にも文句を言われる.
というのも妻は料理が趣味で料理好き.ところが腕によりをかけて手の込んだ料理を 作っても,コンビニの惣菜を並べられても私にとってはおなじなんです.何を作っても「うまいうまい」しかいわないから妻は作り甲斐がないという.「何を食 べてもうまいんだ」といったら1週間毎食納豆と冷奴にされたことがあったが,ぜんぜん平気で妻が根負けした.だってうまいじゃん.
よくひどい料理に対して「うーまずい」とコメントする人がいるけど,ぜんぜんわからない.「へーそうかーこれがまずいという味なのかー・・・うまいなぁ」となってしまう.

世の中にまずいものがまったくないし「食」に関して執着がまったくない.
さらに,妻がいなければ面倒だから基本的に腹が減っても食事をとらない.餓死しない程度に時々食べる.自分で自分のえさを用意するときは飯を炊いて醤油だけをかけて食う.それで十分.だって何食べてもうまいんだもん.
あ,しいたけが多少苦手だけど,食えないわけではない.

2000年2月6日日曜日

たぬき!

実は私の勤め先は結構街中(柏駅徒歩10分,国道6号線沿い)なのですが,一昨年たぬきが建物に侵入して捕まりました.







毎夜,機械警備から発報して警備会社が振り回されていました.ロッカーと壁の間に潜んでいるところを発見され御用.
教頭が警察と保健所に連絡したところ飼われているのが逃げたのではないとわかり,街から遠い森に帰しました.

2000年2月4日金曜日

幽霊?

幽霊を信じるかといわれれば申し訳ないけど信じない.
でも「幽霊を見た」というひとがうそをついているとは思わないし,それは事実だと思う.

幽霊を信じる人がいくら力説しても信じない人は信じないし,信じない人がいくら力説しても,「私には見える」と信じる人は信じる.これって何かの論争に似ていると思いませんか?そういわゆる「宗教論争」というやつです.(ぅわー)

科学で説明できないものは信じないのか?といわれればそんなことはなく,まだまだ科学は未熟だから,現代の科学で説明の出来ないことはいくらでもあると思う.数学でもポアンカレ予想はまだ解決していないし.

まぁ,私にとって,幽霊はいようがいまいが,それは「無害」で,興味が湧かない.生きている人間しか興味ないから.仮に幽霊を見たとして幽霊が何をするのだろう.怖いことはありませんね.

目に見えないことに畏敬の念を忘れてはならないと思いますが,それにとらわれ怖れるのは,呪術そのものだと思う.

つまりいわゆる「宗教論争」にしかならない宗教は,呪術の域を脱していないと思うのだが.きちっと「哲学」を論じ合うことのできる宗教が,宗教のあるべき姿であると思う.

2000年2月3日木曜日

節分かい?

今日はチョコレートをまく日だったっけ?

先月,FMで千葉県内の情報を流していたんだけど,アナウンサーが成田山の節分会を「せつぶんかい」と連呼するのが気になって,車運転しながらいらいらしていたら,最後に「中山法華経でら」と読み上げられてとどめを刺された.

「せつぶんえ」って,本当は「せつぶんね」だろうな.関越自動車道ってローマ字をそのまま読むと「感熱自動車道」だ.nのあとの母音をnにリンクせずに発音できる日本人ってすごいよね.

きのう,10月の小テストの採点,やっと終わった.これで成績に間に合うぞ.

2000年2月1日火曜日

髪を切った

貧乏なので,3ヶ月に1度思いっきり短く刈り上げる.
いつも行く店は火曜日はカットが1700円になるので短くしてきた(普段は1800円).前回の刈り上げは下手だったけど,今日の美容師さんは上手でよかった.

2000年1月24日月曜日

今日

友人がガンで亡くなりました.36歳でした.最後まで握る手の力を緩めず,声をかけるとまばたきで返してました.

手の力が抜け,ほどなく臨終の宣告がされました.荘厳でした.

その姿で彼は自分の全てうったえたことを感じ取りました.
それをここに書こうと思いましたが,どう書いても私の陳腐なフィルターを通した,ありきたりな記述になるのでやめます.

2000年1月11日火曜日

今日からしごと

といっても,冬休み中は12月から3年生の講座編成の仕事をしていたのだが,授業は今日から.今の学校始業式はやらないでいきなり授業.
さて,久しぶりに授業をすると,正月ボケではじめはなんとなく乗らない.
でもしゃべっているうちに乗ってきたぜ.

そんで,毎年のことだが,冬休み中は3年の選択科目の講座編成とクラス分けに没頭していた.
作業は12月からはじめて,とりあえず1月5日の段階で全ての講座を矛盾なく編成することができた.つぎにクラス分けに入ろうとしたとたん,この講座編成では1人の生徒がクラスに割り当てられないことが判明してしまった.トホホ
もしかしたら,最初から講座を組みなおさなければならないかもしれず,12月からの作業が水の泡になるかもしれない.あるいは最悪の場合はその一人の生徒の選択科目を変更してもらわなければならない状況も考えられた.ピーンチ!
しかし!クラス分けに関わる講座の系列を大胆に変更することにより,ピンチをしのぐことができた.1ヶ月以上の作業な水泡に帰すことなく,クラス分けの作業に取りかかりはじめた.めでたしめでたし.ふぅ~.

2000年1月10日月曜日

勧誘とのお付き合い

>訳ワカンナイ勧誘によく合うんですが・・とっても困ってます。

まぁ,町を歩いていても自宅にいても,いろいろ出会いますねぇ.そこが「信教の自由,言論の自由,表現の自由」の国,日本のよいところだと思って,適当に付き合って遊んでます.(^^) 困る必要などない.「興味がありません,さようなら」と一言で終わりませんか? 連中は「人の良さ」につけ込むので人の悪さを出せばOK.「困る」のはあなたの人の良さの表れですが,まともに取り合うのは時間の無駄です.

私は街中での勧誘は「一切関知せず」,前を見てまっすぐ歩くのみ.用があって歩くのだから,付き合うひまは私には1秒もない.前に立たれたら一言「失礼」と横を通らせてもらう.勧誘は自由の国,日本の「空気」だと思うことにしています.空気とお話するのは,ピクニックのときだけで充分です.

自宅に物売り,勧誘がきたときは「いま親がいないから…なんにもわかりません」と子供のふりをする(この歳で!).あるいは,「客が来ている」とか「いまから出かける,忙しいんだ」とか.いろいろやるけど,つき合うのは時間の無駄です.

あと,多いのが電話勧誘なんだ.とくに教員は「名簿が買える」から.以前はよくいろいろ遊んでいた.,
「sphere さんですか?」
「はぁ…」
「(マンション,先物,株,墓地,風呂がま,網戸修理,家のリフォーム,布団クリーニング)を買え云々」
1.「先週買ったばかりです.いりません.」(基本)
2.「退職して失業中です.おかねがありません」
3.「ただいま,だんな様は海外旅行中です.」
あと死ぬほど暇なときは,長電話に付き合ってあげて,相手の仕事を妨害するとかやったけど,最近は忙しくて勧誘とわかった瞬間,何もしゃべらず受話器をテーブルにおいて無視することにしている.(勝手にしゃべらせておく,いずれ切れる.切れるまでよくしゃべるぞー)

最近は子供の家庭教師や塾の勧誘が多い.「ショウくんのお父様ですか?」
「いえ,父はだいぶ前に亡くなりましたが」
「(父…?)お母様はいらっしゃいますか?」
「いまは一人暮らしです.」
「(????)中学生のショウくんのお宅ですか?」
「ショウはわたくしですが,中学生ではありません.」
「失礼しました(???????????)」

DMの返信封筒やハガキは,ごみ減量のため,何も書かずにまとめておいて,あとで投函する.つまりごみは出した人に処分してもらう.できれば封筒にはDMの中身のほか関係ないチラシなどパンパンに入れて返送してあげる.そして自宅のごみの減量をはかる.

以前近所にマンションが新築になったとき,しつこい営業マンがいて,本社に直接電話し名指しして「クビにしろ」と,抗議したことがある.

2 April 2001 追記 > 勧誘電話と遊ぼう

2000年1月9日日曜日

宗教と呪術

あるBBSでの質問と答え
「宗教とは教えに従うことですから、『自分で考えることをやめる』ことになってしまいかねませんね。」

それがまさしく呪術,占い,カルトだ.
宗教も権威的になると呪術になるので,マルクスも「宗教はアヘンだ」と断じた.特に為政者が宗教を取り込むときは,必ず宗教を衆愚政策の道具にする.人々が疑問を持つのをやめマインドコントロールに成功すれば政権が安泰だから.政教分離の本質はここにある.

釈迦やキリストは呪術ではない.彼らは普遍的哲学を説き行動した.
釈迦は当時の社会で行われていた呪術を否定し,現実社会に目を向け,科学的に解決をはかることを主張し,行動をとった.

呪術と宗教の違い
1.呪術は中心者の神格化だけが教義.宗教の教義は人間が説いた哲学.
2.呪術は社会否定,社会逃避.宗教は積極的な社会参加.

「信仰=おすがり」と考えていると宗教と呪術の違いがわからないと思う.おすがり信仰は,考えることをやめさせ人間を弱くする.つまり「たなぼた信仰」である.毎年正月に神社で,たなぼた祈り行われている.もともと神道は呪術だから,たなぼた信仰以外のかかわり方しかないわけで,呪術に対する信仰としては正しいあり方であるといえる.
宗教に対する信仰のあり方は「誓願」であると考えるべきである.明日の自分の成長を誓い,そのために最大に努力し,徹底的に思索し,とことん行動する.つまり釈迦やキリストは神ではなく人間である.彫刻になってしまった偉大な人間師匠にあすの成長を誓うのが正しいありかただとおもう.そのためには徹底的な思索が必要.

呪術には教義がもともとないから,信者の疑問点に対して二言目には「とにかく○○を信じなさい」.それに対し,宗教の入り口は間口を広くするために「信」からはいるわけですが,教義は哲学ですから,その哲学を学ぶことにより自ら疑問や悩みを解決する洞察力思考力が湧いてくるわけです.「考えることをやめる」とは対極といえる.

では学問としての哲学と宗教はどうちがうか.どんなに高尚な哲学でもそれを実社会に実現するには組織が必要であり,それが宗教団体.ニーチェ,サルトルの実存主義も一般市民には広まらなかった.明日のパンを必要とする人にとって,それは机上の空論だから.それに対し宗教はパンを必要な人にパンを与える組織力がある.つぎにパンを与えられた人に対し,次は与える側に立てるように人間的境涯を高めていく活動があるわけだ.その活動は単なる道徳心ではなく利他の哲学に立脚し,行われてゆくべき.

2000年1月4日火曜日

2000年問題

原子力発電所,2箇所で2000年問題で機械が止まったんだって.ほれみろ!
人間のやることに100%はないんだよ.東京電力はあれほど「心配ない」とキャンペーンを張っていたが,結局
全部うそ

ということが発覚した.それもよりによって100%安全であるべき「原発」で.
もちろん私は信じていなかったので,「やっぱりな」と思い,
当然のこと

と思った.

原発事故が起きたら早く逃げる方法を考えよう.
私のリンクにあるから見てください.

かずと量

ひさびさ,数学ネタ.

かずは1から数えるもので,量は0から測るものである.

もうすぐ2000年.

20世紀が1901年から2000年の100年間であるが,歴史を習い始めたころ
「めんどうだな,西暦÷100=世紀 なら簡単なのに.」
と思ったことがあった.つまり1900年から1999年は単純に19世紀だと,西暦の上2桁と世紀が一致してわかりやすいだろうにと思ったのである.
もちろん,西暦は1年から数えて,はじめの100年間つまり西暦100年までを1世紀としたから,当然いまのようなカウントになったのである.
では,西暦1年の前年は紀元前何年か?
といわれたら,紀元前1年である.0年は存在しない.

ビルのエレベータの表示で,0階というものは存在しない.
1階の下の階は,地下「1」階である.

これらが「かず」である.しばしば0の発見と対比する人もいるが,そんな大それたことではなく,「かず」というのは1から始まり,0とは「ない」と道義で,0はかずではないのである.「かぞえる」というのは1から始まるものなのである.

昔の年齢計算の「かぞえ」というのはまさに年齢を「かぞえて」いるのであるから,生まれたら1歳.正月で2歳.とかぞえていくわけだ.

それに対し,0から測るのが量である.つまり,時間,分,秒は人間にとってかぞえるものではなく,測るものなのである.
時間の単位の中ではこれだけが量で,あとの世紀,年,月,週,日は人間にとっては「かぞえる」対象なのである.
しかし,「時」を量として0時から測るのは放送局くらいで,「12時」と言ってしまうことが多いということは,これも量ではなく「かず」と認識しているようである.
上2桁を「世紀」にするには0年から始めるとともに,0世紀から始めなくてはならない.そうなると,月日も0月0日からはじめる.1年間とは0月から11月までも12ヶ月間ということになる.
暦の始まりを0世紀の0年0月0日0時0分0秒にすれば,とてもわかりやすいカウントになったのだと思う.

コンピュータのメモリのアドレスも「0から255までの256個」のような数え方をしている.

イギリスでは地上が「地上階」で,その上が1階,地上階の下が地下1階と聞いたことがある(ちがっていたら指摘してほしい).つまり0階が存在している.もし本当ならイギリス人は階数というものはかぞえるものではなく,測るものらしい.

中2階ということばがある.1階と2階の間である.中2階というからには2.5階のような印象をうけそうなものだが,1階と2階の間なのだから1.5階かもしれない.で,そもそも0階から始めるイギリス式なら,0.5階ということになって,まことに自然である.

現代の年齢計算も量といってよい.ところが,妊娠第n週というのが「かず」なのでこんがらかってしまう.

死んだあと,1周忌は量だが,3回忌はかずである.

ほかにもかずと量が混在しているものがあったら,BBSへ書き込んで教えてね.

1999年12月16日木曜日

徹夜あけ

結局昨日は徹夜で採点した.期末テストは返せたけど,10月の小テストはあとまわしになった.採点そのものは4時ころ終了したが,パソコンに入力,成績処理に6時までかかった.

1999年12月9日木曜日

1999年2学期数学Ⅲ一斉テスト

2学期末テスト.

今回の試験範囲は

怒涛の138ページ!!

教科書ではこの138ページ分だが,教科書以上の内容を解説した50枚以上の両面印刷プリントもテスト範囲だった.生徒諸君,ご苦労様.(自分が生徒じゃなくてよかったと,本気で思うゾ)

ということで,あまりに広い試験範囲だから,計算問題は「教科書丸写し状態」で何の工夫もないまことにお恥ずかしい状態.そのかわり記述式はいろいろと論じてもらった.


pdf と TeXソース


1.等式 x +a − 3b = −2(x − 2a − 3b) を満たすベクトルx を,a, b を用いて表せ.

2.一直線上にない3 点O, A, B について,OP = sOA + tOB, s ≥ 0, t ≥ 0,
s + 2t = 3 を満たす点P の存在範囲を求めよ.

3.a = (1, 2), b = (3, 1) とする.
(1)2b −a を求めよ.
(2)2b −a の大きさを求めよ.
(3)p = (5, 1) をa, b を用いて表せ.
(4)a ·b を求めよ.
(5)a, b のなす角を求めよ.
(6)a に垂直な単位ベクトルを求めよ.

4.方向ベクトル(1, 2, −1) で点(3, 4, 2) を通る直線の方程式をパラメータ表示で表せ.

5.点(2, 3) を通り,法線ベクトルが(5, 2) である直線の方程式を求めよ.

6.中心の位置ベクトル⃗c で半径r の円|p −c| = r 上の点p0 における接線
のベクトル方程式を書け.

7.f(x) =√x において,区間0 ≤ x ≤ 1 で,平均値の定理を満たすx = c を求めよ.

8.関数y = ex − x の増加減少を調べよ.

9.関数f(x) = |x^2 − 1| の極値を求めよ.

10.曲線y = x + sin x (0 < x < 2π) の凸凹と変曲点を調べよ. 11.半径r の半球型の容器に毎秒a ずつ水を注ぐとき,深さがr/2 のときの水面の上昇速度を求めよ. 12.log 1.01 の近似値を計算せよ. 13.1/cos^2 x の原始関数を求めよ. 14.1/tan x の原始関数を求めよ. 15.x log x の原始関数を求めよ. 16.x/((x + 1)(x + 2)) の原始関数を求めよ. 17.∫[1,e](1/x)dx を求めよ. 18.∫[0,1](1/(1 + x^2)) dx を求めよ. 19.∫[1,e]log x dx を求めよ. 20.数列 1/(n + 1) + 1/(n + 2) + · · · + 1/(n + n) の極限を求めよ. 21.関数 ∫[x,x^2] f(t) dt をx について微分せよ. 22.曲線y^2 = x とy 軸,直線y = 1, y = −1 で囲まれる部分の面積を求めよ. 23.0 ≤ x ≤ π/2 の範囲で,曲線y = cos x とx 軸に挟まれる部分を,y 軸の周りに回転させてできる回転体の体積を求めよ. 24.x = 2t − 1, y = e^t + e^(−t) で表された曲線の0 ≤ t ≤ 1 の長さを求めよ. 25.微分の平均値の定理を正確にかけ.そして図形的イメージを説明せよ. 26.極値を定義せよ. 27.2 回微分可能なf(x) において,f''(a) > 0 ならばx = a で「   」に凸である理由を説明せよ.


28.積分∫[a,b]f(x) dx の存在を保証する定理を述べ,積分を定義せよ.

29.積分の平均値の定理を正確にかけ.そして図形的イメージを説明せよ.

30.微分積分学の基本定理を書け.

31.微分積分学の基本定理の意味を説明し,その恩恵を述べよ.

32.単なる微分の逆操作の結果である「原始関数」に「不定積分」という「積分」の名を与えた事情を考察せよ.

33.曲線(x, y) = (g(t), h(t)), α ≤ t ≤ β の長さを積分で表し,その表し方がわれわれの感覚と矛盾しない事情を,積分の存在の定理,あるいは微分積分学の基本定理の観点で説明せよ.

34.球の体積を半径で微分すると表面積になる理由を説明せよ.
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1999年12月7日火曜日

「自分探し」へのコメント

あるBBSへ書き込みました.

自分探しの思索は大切です.
しかしそれにとらわれると不幸です.

思索を支えるのが行動です.それも困った人のための行動.
アフリカの飢餓や戦争のように,明日の命すら危うくて,自分探しの思索が出来ない人々にとっては,それができるこの国がなんと平和なことだと思いませんか?

行動といっても,身近なところから.最も苦しんでいる人を最も大切にするような世の中になるような手助けを少しずつでしながら,自分探しの思索をしてみてください.

人 は心のつながりを糧に生きる生物です.結局「自分探し」といっても,人はそのつながりの中の自分しかありえません.そして心のつながりをつくるには,行動 に出るしかありません.さらにその行動は「最も苦しんでいる人を支える」です.その行動の中にあなた自身が見つかるはずです.みつかったら教えてね.



苦しいときほど外に目を向ける.まるで苦しんでいる人に鞭打つようで気が引けるのですが,精神的苦悩というものは「行動」の中に解決を見出すしかないですから.

私にとって「自分」とは上記の精神を行動で表現する人間であることを20代前半で見つけました.

「自 己を意識する」のは人間だけです.つまり人間の持つ理性です.これは言語を持たないほかの生物ではありえません.理性というものは感情とは別の脳の働きで すから,時として心のつながりを阻害します.つまり理性で自分探しをして「言葉で表現された自分」を探そうとすると,心のつながりの喪失になりやすく,精 神的な苦悩に陥りますよ.私が「行動」を強調するのはそこにあります.

ようするに私は伸びきったゴムのように「脳天気者」で,精神的苦悩を持つ人にとっては軽蔑される人間です.しかし逆に私は人助けもしないで勝手に悩んでいる人間を哀れだと思いますが.

1999年11月20日土曜日

カルトの宣伝に使われる馬鹿なマスコミ

マスコミの馬鹿さ加減というものをまた今回も感じた.
あの記者会見報道である.

オウムのじょうゆうの記者会見を思い出した.

カルトの発言をそのまま報道するのはまったくばかげている.
記者もカルトからまともな答えを引き出そうとするが,
当然キチガイなのでそんなものは出てこない.
まっとうな答えが出なければ,そんなものは公共のメディアに乗せる価値のないものである.


きっとカルト信者予備軍が「放送されるほどのカルトだ」と殺到して,
あのカルトはまた人数を増やすだろう.
オウムがじょうゆうの記者会見で人数を増やしたように.
またまた大もうけだ.

馬鹿なマスコミどもはオウム事件を全く教訓にしていない.
NHKが記者会見の報道をしないのはさすがだと思った.

カルトとは

カルトは科学や常識を否定するところから始まる.
「科学的」を装っていても結局は「呪術,オカルト」の世界だ.

現代は科学や常識が高度な社会システムとして存在しているため,
時として人間が疎外感を受けることがある.
こんなとき,その社会システムを否定するカルトがその疎外感にうまくつけこんで勢力を拡大するわけだ.
オカルトや呪術も同様で,結局はシステムからの逃避にしか過ぎないと思う.
最大にシステムを否定した結果がオウムのハルマゲドンである.
ライフなんたらも現代の医学システムを否定するところから始まっているわけで,スタートは昨今の「健康ブーム」でだろうなきっと.

私などは普段から「常識」に疑問を持ち必ず「この常識を否定するとどうか」ということを考えてる.
しかし「良識」は失わない.
常識やシステムを否定して連帯感を高めているうちに自ら良識を失った集団.それがカルトだ.

で,そのような逃避者を生む社会システムをどのように人間の手に取り戻すか.
システムは「思想」ではないので,結局人間の「本能」の赴くままに構築されゆく傾向がある.
そこに本当の思想,哲学,宗教の存在意義があるわけだ.

1999年11月17日水曜日

教師の不祥事

教師がまた破廉恥事件でつかまった.
ひとりはなんと
「ばれなきゃいいと思った.」
とほざいた.とんでもないやつだ.

子供が親の目を盗んで悪いことをしているのとまるで同じで,
ふつう大人ならば「誰も見ていなくても悪いことは悪い」と判断がつくだろうに,
と思う.
こういう大人の見てくれをしたガキを排除しないかぎり,
どんなに教育論を論じても,
机上の空論で,
教育改革は空洞化する.

不祥事は「教師以前」の人間として振る舞いだから,
教師であろうとなかろうと
「悪いことは悪い」
のだ.
防ぐためのひとつの策としては,
教師が不祥事を起こしたら二度と社会復帰できないほどの制裁を加える.
マスコミは教師や警察官の不祥事は徹底的に糾弾すべきである.

また「ばれなきゃなにやってもいい」という人間が教師をすると,
往々にしてまじめで「規則を守らせる指導」がうまく,
子供が親の前ではいい子であるように,
こういう人間は上司からも「熱心な先生」と思われるのも上手である.
さらに,規則で縛る教育ほどコストのかからぬものはない.
心で納得させるのではなく,「規則だから」と規則に教育させるのである.
その結果が,子供も「ばれなきゃなにやってもいい」,
「人に迷惑かけなきゃなにやってもいい」につながる.

教育とはいい子になる見栄のはりかたを教えるのではなく,
行動の美学を確立する手助けをするものであるはず.