1998年1月26日月曜日

1997年度学年通信「さぼてん」より 1月26日

勉強の目的

諸君は何のために勉強しているのだろう.
この時期,目的を見失い勉強が手につかなくなる人が多くなってくる.
それに対するその場しのぎの答えはもう何十年も前からいわれていて,「とりあえず目の前の現実から逃げるな.自分が飛び込んだ試練を乗り越えよ.
勉強の目的はそれから考えても遅くはない.」

それにしても「勉強の目的」なんてことに悩む,たわけ者がいる以上, 答えを書く必要があるな.
まず「勉強の目的」を悩む人間は利己主義者であるということである.
勉強の機会すら与えられることのない子どもが,世界中に沢山いるという現実がある.
勉強したくとも貧困や紛争が勉強の機会を奪う.
これは極端な話かもしれないが,身近なところで,私の妻も家庭の事情で大学進学を断念した.
それゆえ勉強の目的に悩むなどというのは妻に言わせれば

「なぁ~にをたわごと言ってんだ.そんなこと悩む人間はさっさと勉強をやめろ」

ってことになる.
勉強をしたくてもできない,世界中のほとんどの子どもも同意見だろう.

でもこれじゃ解決にならないから,教えてあげるね.
「勉強の目的」を悩む人間は利己主義者であるとしたが,その理由はもう一つある.
それは勉強の目的が「見栄」になっている可能性があるからである.
本校の進路指導でも「名前ではなくやりたいことで選べ」という方針を採っているのは「見栄」が目的化し悩む人間が少なからずいるからである.
しかし18歳そこそこでやりたいことが見つかる人の方が珍しいくらいだと思う.
そうすると,名前で大学を選び勉強の目的がばかばかしくなるわけだ.

やりたいことがみつからないのも贅沢な悩みであると同時に,哀れでもある.
そういう人は勉強の「自分の試練」と捉えるのも一つの方法である.
よく昔から「若いうちは苦労は買ってでもせよ」といわれる.
苦労を眼前にして弱虫は逃げ出すが,勇者は「成長のチャンス」の捉える.

そもそも「悩みがある」というのはそれが「成長のチャンス」と捉えれば, 幸せなことである.もし「悩みがない」という人がいたら, 成長のチャンスがない自分を不幸だと思うべきである.

さて,何のための勉強か.
まず,「自分の将来をひらくため」というものがある.
これは「なにをやりたいかわからない」という普通の人にとっては目的化しづらい.
それに自分の将来をひらくために,他人を蹴落としていては意味がない.

世の中助け合わないといかんというのは,昨年までの学年通信に書いた.
その観点で勉強の目的を書かせてもらえば,「困ってる人を助けるための学力をつけるための勉強」をしよう.
東葛生は狭い意味で高学力だと思う.
高学力の人がそれを持たない人を,高学力をもって虐げるようなことがあったら,とんでもない暴力であり,凶器である.
思いやりのある分かち合い社会を目指すには「持つ人は持たぬ人に」ということが基本.
したがって,学力を持つ人は学力がなくて困ってる人のためにその学力を使うべきである.
金もうけや保身のために学力を使う輩が多くて,いろいろ社会問題を起こしているが,「保身」というのは見苦しいねぇ.
医者は医学知識のない人の病気を治すために学力をつけるわけだし,弁護士は法律の知識のない人がそれを理由に不利にならないための学力をつけるわけだ.
そのほかの専門家も同様.
みんなが勉強する目的は,困ってる人のために役立てるためだからね
自分のためだけに勉強するなら,さっさとやめてくれ.
そういうやつが「学力」という名の凶器を持つと,ますます世の中悪くなる.

1998年1月19日月曜日

1997年度学年通信「さぼてん」より 1月19日

若年寄

なんか最近,東葛生を見ていて年寄りが多いなと思っていたが,むかしの人がすでにいろいろ指摘していた.

ロジェ・ガローディ
「ふつう人間は,若く生まれて年をとって死ぬと思われている.ところが,実は『真実の若さ』を手に入れるには,非常に長い修行を積まねばならない.」

ヘルマン・ヘッセ
「成熟するにつれて人はますます若くなる」

「若さ」とはたとえば「現状にとどまらない精神力」.
とりあえず3年生のほとんどは大学受験をする.
いやでも「現状にとどまる」ことはできない.
でも「自分からその道を選んだ」人はどれだけいるだろう.
まわりに流されて進学するのではない,と誇れる人はどれだけいるだろう.
現代社会のシステムは15歳,18歳に現状にとどまることを許さない.
それはべつに悪いことではない.
こわいのは「流されて現状にとどまらなかった人」が大学に進学してから.
「その現状に満足」して「停滞」すること.
それはもう精神の老化のはじまり.

大学を終えてからも現状にとどまることはできない.
しかしそして,大学を卒業してから完璧に停滞し,「死を迎える」人は多い.
そして,「保身」の一生を過ごし,「保身社会」が社会の閉塞状況を生み出すわけだ.

老化の精神の人生を選ぶ人は多い.
つまり年齢が低いときはもちろん,年をとるにつれてさらに「頑迷,偏狭」を強める人.
「開かれた心」や「柔軟性」は若さの特徴のように思われているが,本当は年齢とともに獲得してゆくものである.

頭でっかちで,頑迷,偏狭,利己的,一人よがりの集まりである 3 年生諸君.
それ以上に頭でっかちで,頑迷,偏狭,利己的,一人よがりの僕と,どちらが先に「開かれた心」「柔軟性」を獲得していくか競争だよ.
それにしても僕の高校生のころは,みんなより「硬直した頭脳」でダイヤモンド並みだった.
最近やっと「石頭」くらいに柔らかくなってきたように思う.

今から,周りに目を向けて自分の世界を広げよう.
そのための「真の学力」を身につけよう.

1998年1月12日月曜日

1997年度学年通信「さぼてん」より 1月12日

本を読む

本の読み方にはいろいろある.
今回は恥ずかしながら,私の心がけている読み方を披露しましょう.

普通,本を読むとは単に情報として内容を受け取るなり,物語ならストーリーを楽しむという読み方をさすと思います.
例えば古くから語り継がれる昔話や,古今の名作と呼ばれるものはまず,ストーリーに惹きつけるものがなければ万人に読みつがれるわけはないので,面白くてあたりまえだと思います.
名作を読んだことがない人がいたら,なにか全集でもよんでごらん.
おもしろいから.
でもこういう読み方は面白いものが面白いで終わってしまって,本を読むというより読まれているといえなくもない.
けど,全く読まないよりは確実に教養が深まる.

もう少し深い読み方としては,いわゆる狭い意味で「文学」としの読み方.
ストーリーの構成,時代背景等に思いをめぐらしながら読む.
さらには著者の世界観や,登場人物に託した人物観を考えながら読むというのがある.
私にとって本を読むとは自分の哲学にすることを心がけることかな.
哲学なんていうと大げさだから,自分の生き方の糧にするというのかな.
あ,でもこれも結局哲学か.
哲学は学問かもしれないが,それ以上に人としての振る舞いの規範だ.
人としてどう振舞うかを言葉にしたとたん,哲学というわけだ.
つまり,自分の振る舞いの糧にする読み方を心がけている.

もっと具体的に.

昔話の「桃太郎」はみんなはどう読むか.
桃が川に流れてきて,中から子どもが生まれるというのは,わくわくするストーリーで,もう「つかみは OK」という感じ.
それが「日本一」の旗立てて,動物の子分を従え悪者の鬼をやっつけるなんてもう,とても痛快なストーリーで,昔話の定番としてふさわしい.
さて,「桃太郎」が作られたのはいつ頃だろう.
その時代の人にとって,登場人物はどういう意味を持つのだろう.
残念ながらわたしはこういうことに興味がないのでしらない.
こういうことを議論するのが文学だと思うけど,私は門外漢なので,違っていたらごめんなさい.

さて,私の読み方はこうです.

登場人物(?)の雉は「我が子を助けるためなら火の中に飛び込む」といわれ,昔から勇気の象徴だったそうだ.
そして,犬は誠実の象徴だそうで,これは現代人も納得できるかも.
サルはやはり知恵の象徴.これで桃太郎を読むと,誠実,知恵,勇気を手に入れるためには物的財産(きび団子)を惜しむな.
そして,誠実,知恵,なにより勇気をもって人生の困難(鬼)に立ち向かえば,人生に勝利できるであろう.

こういう読み方は当然,一通りではないし,かなり個人的といわれればそのとおりである.
しかし,せっかくいそがしい時間をさいて本を読むのだから,十分思索して自分の振る舞いの糧になる読み方をしたいものである.
ただの娯楽なら今は本など読まなくても,現代は十分な娯楽が供給されている.
私は名作が読み継がれる理由は面白さだけではなく,生き方の糧として耐える哲学があるからだと思っている.
今まで,食わず嫌いで本を読まなかった人は,だまされたと思って名作とよばれるものを読んでみよう.
視野が広がるよ.いま,そんなひまはないかな.