1997年11月25日火曜日

1997年度学年通信「さぼてん」より 11月25日号

学問の自由

先日の学年PTA企画のパネルディスカッションで「大学の授業はつまらないものが多い」という現役大学生の声があった.
逆に「面白い授業」とは何だろう.
「ためしてがってん」とか「動物奇想天外」とかも「授業」とすれば面白いほうかもしれない.
テレビのようなメディアの特性として,視聴者に「頭を使って考える」ということを要求できない.
逆にそれを要求すると「教育テレビ」みたいなつまらないものになるかもしれない.
もしかして,面白い授業は「頭を使わずにわからせてくれる授業」と思ってはいないか.

「面白い授業がよい」と言われるようになったのはいつのころからだろう.
少なくとも,私が高校生のころはそれを期待してはいなかった.
当時「○○先生の授業は面白い」というのはあったかもしれないがそれは「個性」であって,だからといって「つまらない授業をする××先生よりよい」とは思わなかった.
つまらなくても一定のレベルさえあればみなそれに期待していた.
まぁ,高校進学率が9割を超えた昨今では学問的レベルより,
「授業の面白さ」で生徒を惹きつける必要はあると思う.
しかし大学の授業にそれを期待すべきではない.
大学の先生は「教育者」である以上に「研究者」であるべきで,学生へのおべっかにうつつを抜かすひまがあったら,学問の研究を進めてもらいたいと私は思う.
授業のレベルについてこれない学生は落とせばいいのだ.
大学が,中学や高校のようになったら意味がないと思う.

学問の自由とは,もちろん権力からの束縛を受けないということではあるが,難解な内容,不親切な授業,くだらない受験勉強という邪魔にもめげずに学問を究めるという諸君の権利であるはず.
「知らないことを知りたい」という人間のもっている根源的な欲望の発露が学問であるはず.
それがつまらないと思う人は面白さを期待する前に,さっさと学問から離れてほしい.

学問をつまらなくしているのは学歴社会だと思う.
進学の目的は学問ではなく「学歴」なのだ.
くだらない見栄のための勉強が楽しいはずがない.
テストのために勉強するのはいやなものだが,学歴社会は社会制度だから,ふるいにかけるためにテストがあるし,この制度の中に安住しようとする限り,テストは続くよどこまでも.
そんな中で,それにも負けずに「学問する」のが学問の自由だ.
テストのための勉強がいやな人は,この制度から抜け出して「実力」で世の中を渡り,学歴だけを鼻にかけるやつらをだしぬけばよいし,そういう人もたくさんいる.

それにしても数学は面白い.学問としてこれほど楽しいものはない.

1997年11月17日月曜日

1997年度学年通信「さぼてん」より 11月17日号

言論,表現の自由

学級日誌の記述を学年通信に転載することの是非が前号のサボテンに出ていて,そこには生徒の著作権(無断で転載されない権利)がないとありました.
知らなかったと思うけど,学級日誌の法律上の位置づけは「公募に準ずるもの」だったようにおもう.
公費(税金)を使って紙や表紙が用意されるのも私的なものではないからで,保管場所が教室ではなく教務室の前であるのは,単に教員にとって便利だからではなくて「校内の誰でもが閲覧可能である」ことを保証するためなのです.
公費が投入された公的日誌なら当然のことですね.
だから転載の是非は生徒の著作権ではなく,自由閲覧可能である公的日誌の内容が別の誌面に転載される是非にさかのぼって,議論する必要があるわけです.
逆に記載する生徒は公的であるゆえ,誰に見られても差し支えのない内容を気遣うことが求められます.
本校の良いところは検閲をしないことですね.
これは記載者の良識が求められます.

検閲といえば「言論の自由,表現の自由」なんてことを思い出します.
「言論の自由,表現の自由」というと,「なんでもあり」と履き違えている社会の風潮があって,一部マスコミ等はその錦の御旗の元に人権侵害を繰り返したり,わいせつな出版物を店頭に並べさせたりしています.
皆さんは「言論の自由,表現の自由」の本当の意味を知っていますか?

「言論の自由,表現の自由」というのは「言論表現によって公権力に取り締まられない」だけであって,「なんでもあり」ではありません.
「なんでもあり」と思っている一部マスコミは「知る権利」まで持ち出して個人のプライバシーを晒します.
数年前に,街宣車の音を規制しようと東京都で条例を設けようとして,市民の反対で取りやめになりました.
うるさい街宣車を見ると一見「うるさいから取り締まってくれないかな」と思うかもしれません.
しかし,どんなにうるさくても警察等が取り締まるのは「言論表現の自由」の侵害です.

ではどうするか.うるさいと思う市民が集まって抗議すればよい.
市民の集まりは「公権力」ではないから「自由の侵害」にはあたりません.
つまり「マナーが悪いぞ」と教えればよいわけです.
同様に良識のない出版物は市民の力で排除すればよい.
良識のない出版物を「法律で取り締まってくれ」というのは,そもそもの発想が憲法違反です.
法律で取り締まるのではなく,市民の力で排除する.
これが民主主義というものです.
つまり,人権侵害や公序良俗に反するような腐臭を放つ出版物は,神戸の事件の写真の件のように「店に置かない」,「買わない」ことによって,社会から排除すべきであり,権力による出版差し止めはどう考えても憲法違反です.
逆に市民の不買運動等,市民の側からの排除は言論の自由の侵害にはあたりません.
出版社が何を出版するかは自由,それが言論の自由.
腐った表現でも出版は自由.
ただ市民が「腐ったものは買わない」,「うちの店は腐ったものは置かない」と皆で良識を持って社会から排除すればよい.
それを権力に肩代わりさせてはいけない.

でも店に並べればたくさんの人が覗き見趣味で買うんだろうし,街宣車だって一朝一夕にはなくならない.
これも現代の閉塞状況.
だからといって,権力に判断をゆだねるのは危険だ.
結局一人一人がモラルを確立するしかないわけだ.

道は遠いけどそれしか方法がない.
短気を起こしちゃだめなのよ.

最後に人権侵害某雑誌言い訳
「われわれは国民の知る権利に応えている.それがだめだというのは知る権利の侵害,言論の自由の侵害である.」
これに反論してください.
簡単でしょ.

1997年11月10日月曜日

1997年度学年通信「さぼてん」より 11月10日号

両端揃え命を大切に

未成年の喫煙,飲酒は法律で禁止されている.
それは未成年を束縛しているのだろうか.
その法律で罰せられるのは誰か.
たばこや酒とは次元が違うが,あるアンケートでは薬物の使用も本人の自由であると考える者も増えているようだ.
善悪の判断さえ,本人の自由であるということか.

生物がどのようにその命を維持するかを考えてみよう.
ほとんどの植物は太陽の光からそのエネルギーを得ることが出来る.
それに対し,動物は必ず他の生物を摂取しなければ生命を維持できない.
つまり,動物は他の生物の犠牲の上に生命を維持しているわけだ.
命が大切な理由は何だろう.
養豚場のブタは人に喰われようと思って生きているわけではないし,畑のキャベツだって人に喰われるつもりで生えているわけではない. (喰われたいと思っているのは果実だけ)
みんなが意識しようがしまいが,生命の維持のために,生命の殺戮は行われている.
だから,命が大切なんだよ.
君の命は他の命をもらって維持しているんだ.
だから粗末にしてはいけないし,食べ残しや好き嫌いが良くないことにもつながる.

善悪の判断基準

話は変わるが,善悪というは,相対的なのだろうか,絶対的なのだろうか.
現代は価値観が多様化しているといわれ,「人に迷惑をかけなければなにしてもいい」風潮がある.
つまり,善悪の判断も個人の自由と思われはじめている.
ほんとかな.私は善悪はそんな相対的ではないと考えている.

「命を大切に」でも書いた通り,地球の生命を粗末にする行為はすべて「悪」に違いありません.
人間が地球に対して行っている残虐行為を考えると今すぐ人間をやめたくなるが,生き物の一員である以上自分の命を粗末にすることも地球生命に対する反逆なので「悪」です.
自殺などは私に言わせれば,殺人罪だ
つまり,生きることも悪かもしれないが,だからといって粗末にすることも悪である.
逆に良いこととは,自分も含めて地球のすべての生命を生かす努力をすること.
自分の生命維持のために最小限殺めるのはしかたがない,それがもともと動物の背負っている宿業だから.
だからそのために死んでくれた生命への感謝の気持ちは忘れない.

自分の人生,自分の命だから勝手にしてほしいと思うのは,せっかく命を育んでくれた地球に対する冒涜で「悪」です.
だから人間という生き物である以上,人間として精一杯価値的に生きることが,せめてもの地球への恩返し.

環境,社会,差別… この視点で見るとあらゆるものの善悪が見えるよ.

1997年11月4日火曜日

1997年度学年通信「さぼてん」より 11月4日号

はじめに

「サボテン」の「ひろば」の中に

最後の○○

という言葉が増えてきて,感慨を覚えます.
この時期,一つの節目が近くなり,それぞれに思うことがあるのでしょう.
私のところにも「広報東葛,卒業号」の「卒業生に贈る言葉の原稿依頼」が来ました.

 どうも私は「節目」が苦手で,冠婚葬祭すべて駄目です.
というより,皆がある一つの感動なり悲しみなりを分かち合う場面がどうも苦手です.
文化祭でクラスのみんなが感動している時に担任として何か言えば,普段授業で寝ていたり内職している人でも,素直に心に染み入るのだろうと思います.
でも,なんだか「感動の場面を利用して小言を伝えている」ようでフェアじゃない気がするし,だいいち照れ臭い.

卒業式ではほとんどの人が感動すると思います.
そこで何か言うときっと心に残ると思います.
私の気持ちとしては

「あー!はずかしー」

だから去年の卒業式での私の言葉は,

「卒業おめでとう,お元気で.」

その後のクラスでの最後のホームルームでは,5分で通知表その他配布物を配って「さようなら」.
感動の場面で素直に感動を共有できないというのは,つまらない性格だと思う.
みんながうらやましい.感動の輪の中に入れないというのはさみしいものです.

で,今年もそうなると思うので,今のうちに言い訳をしておいて,その場では言えない普段思うところを書きます.

いま

人類がいるおかげで,地球上の生物の滅亡が速まっているのはみんな知っていることだと思う.
そして食べ物が余って大量の残飯を廃棄する国と,飢餓で苦しむ国があるし,銃声の絶えない地域がある.
それから,報道機関と警察の結託で,無実の罪を着せられた人もいるし,だいたい報道機関の姿勢は「逮捕=有罪」だ.
官僚の賄賂の授受も横行し,企業の不正も絶えないし,政治家は名誉と保身と票にしか頭にないし,モラルもなくなり,「医師や弁護士や教師や警察官もやっぱり人の子だ」という言葉しか出ない破廉恥な事件も多い.
HIVを病気の治療で感染させられた人もいれば,世の中の差別がなくならないことも知っていることと思う.
外国人は理由なく怖がられるかあるいは変に意識されるし,日本宗(正月は神道,葬式は仏教,結婚はキリスト教)から逸脱すると,「常識」を疑われるか変わり者扱いされる.

こういった世界の閉塞状況をどうとらえるか,さらには,解決できるのか.

  1. 自分で解決する
  2. 誰かが解決するだろう
  3. どうせ解決できない.あきらめる
君ならどれにあたる?
テーマを絞っても良いので,学年通信に投稿して下さい.
私も次回までに考えます.