2000年4月30日日曜日

数学を学ぶ意味 理由

2013.6.29追記>数学を学ぶ理由は,世界の平和と人類の幸福のため

2006.12.25追記>「脳が汗をかかなければならない.」



2000年4月,新入生に対し数学を勉強する理由,意味をアンケートで答えさせた.それに対するコメント
「お金などの計算に使う」
これは算数だと思うのだが.
「進学や就職に役立つ」
とりあえず目の前のテストの突破ということかな.数学が役に立たないものなら,なぜそれでテストをするのだろうか.「学校で習うからそれを選抜テストで利用する」というなら,なぜ学校で習うのだろう.「選抜テストで数学がある」から? どうどうめぐり.選抜テストで「数学」があるのは,「数学を使うから」ということもあるかもしれないが,どちらかというと「数学の素養が必要だから」というのも多いと思う.
「数学を使わない仕事に就きたい」
そういう意味で,「素養」は必要.しかしほとんどの仕事は「知識としての数学は使わない」から安心してよい.
「数学はなくても何とかなるけどあったほうがいいもの」
まぁすべての学問について言える.世の中の80%以上の人にとって学問は不要でしょう.しかし現代の便利な生活を支えるために20%の人には,高い報酬をもらっていいから頑張ってもらわないと.
「数学は国語に似ていると思う」
数学は科学を記述する言語です.言語であるなら「国語に似ている」のも当然です.
「歴史は覚えるだけだが,数学は創造性を育てる」
これを聞いた歴史の先生は悲しいだろうな.歴史を学ぶのは年号を覚えるためではありません.歴史に学び,未来を創造するために学ぶのです.その時,事件の流れをつかむために年号などを使うのです.たとえば「794年平安京遷都」というのがあるが,ただなんとなく場所を移したわけではないだろう.奈良の都を捨てて平安京をつくる必然があったはず.そのときどんな事件があって,どんな人物がどう活躍したかを知れば平安遷都が794年というのは「当然のこと」になってくる.これが歴史の学びかただよ.歴史は,その事件を通して人間の生き様,強さ,弱さを学び,人生の糧にし,未来を創造する.それが目的だと思う.
「数学は日常生活には役に立たないのではないか」
まったくそのとおり.私も日常生活では使いません.その意味では数学以外のすべての教科も当てはまります.小学校高学年以上の内容はどの教科も日常生活で使いません.でも空気のように役立ってます.
「論理的思考力,表現力を養う.」
数学でなくても養えます.囲碁や将棋やオセロが強くなれば養える.でも学問全体はこの素養が必要で,どの教科でも養える.
「頭を使わないと堕落する」
サルに戻るね.
「社会で役立つ」
社会の要請でもある.つまり「数学そのもの」ではなく,数学で鍛えた「柔軟な思考」がますます求められる社会になってきています.まぁ,実際に数学の知識は使わなくとも,その柔軟な頭脳は空気のように大切.日常でその大切さを感じ取るのは難しい.
「必要があるから学ぶのではなく,知りたいから学ぶ.」
人間の本能ですね.これがサルとの違い.
「好きだからやる.社会で役立つのは副産物」
まぁ,個人的にはそう.「役立つ」ことを見越して勉強しても身につかない.無論,社会の要請で数学も発達しているのだが.
「可能性を広げるために必要」
その前向きの姿勢がよい.自身の無限の可能性をどこまで信じることが出来るか.
「数学にはセンスや才能がものをいうのだろうか」
センス,才能がものをいうのかもしれないが,中学,高校の6年間くらいでは判断できない. 20年くらい努力をつづけてはじめてわかる.つまり大部分の人は短期間で勝手に結論づけているわけだ.
「大学の専門教育の準備期間としての高校」
それはいえる.しかし,それなら予備校だけでもよい.高校の存在は知識を増やすだけではなく,それを通じて知識の獲得方法も学ぶ場でもある.さらに,人として集団への関わり方を学ぶ最後の期間でもある.生徒総会とか,全校で合唱祭なんて,高校が最後でしょう.実は大学も「知識を増やす場」以上に,「知識獲得のスキルの向上」が本来の目的であると思います.知識が増えても行動に出なければ意味がないからです.それを簡単に言えば「平和と人権」のテストでいい点とる奴が平気で人をいじめるようなもんです.
「古代からある文化遺産としての数学を学ぶ」
人類はそうやって発展してきた.
「円周率は現在でも計算をしつづけているらしいが,いつか割り切れる日がくるのだろうか」
円周率は無理数であることが証明されています.つまり循環しない無限小数であることが証明済み.今行われている円周率の計算は,コンピュータ利用技術の競争.つまり「うちの技術だと市販のパソコン使って3時間で50億桁計算できたよ.」と自慢するために行われている.技術力の高いところのソフトは「売れる」わけだ.
「数学は答えがスパッとでるからよい」
数学者は常に数十から数百の未解決の問題を考えていて,ほとんど解けなくて,たまに解けると「論文」として発表するのが仕事です.みんなのやってる数学は「古典」で,すでに解決済みのものばかりだからかならず答えがあります.答えがあるかどうかわからない問題を解くのが,本当の数学です.
「答えがひとつだから好き」
他の教科もテストの答えはひとつでしょう.でないとテストはできないはず.よく引き合いに出されるのは国語のテストです.「国語はたくさん答えがある」という人がいるが,本当だろうか.試しに,どの国語のテストでもよいから,何通りの答えがあるか数えてみてほしい.「与えられた文章」をもとに「読み取り」を問題にしたり,「指示語」の指示する文を答えさせたり,「要約」を表す文を抜書きさせたりする場合,「もっとも適切な客観的な答え」はただ一つのはずで,そうでなければ「テスト」にならない.逆に「作文などは個性が出るよ」というかもしれない.もちろんそう.これは数学でも「証明」についていえること,証明の方法など一通りではない.それこそ「個性爆発」だ.記述式の数学の問題などは「作文」のようなものです.
「図形が苦手できらい」
計算より図形が苦手なのは普通です.あたまの使い方のレベルから考えると当然です.逆の人はまずいないでしょう.
「数学を学んでいくうちに興味を持ち,将来仕事に役立ち,科学が発展し,人々の生活の向上につながる.」
これが「全員にやらせる」理由だね.この科学文明を支える人を見つけ出すには「全員にやらせて興味を持つ者,得意な者」を探すしかない.エジソンやアインシュタインは「低学力児」だったそうで,たかが学校教育の十数年くらいでは「数学の向き不向き」の判定はできない.したがって,日常生活の部分は小学校で6年かけ,中学,高校とさらに5,6年かけて「全員」に数学をやらせ,「興味を持つもの,得意な者」を見つけだそうというわけだ.さらに文科系の大学へ行っても1年の「一般教養」では「自然科学の分野」から2科目程度は選択しなければならず,人によっては数学を選択することになる.したがって,たかが数年間で「数学はいらない」と判断され,数学の素養のない人が大量に社会に送り出された場合,現代の便利な生活を支える上で不都合が生じるかもしれない.日常生活では意識しなくてもこの便利な生活は科学が支えている.その科学の記述に数学は不可欠.だれも数学をやらなくなったら,この便利な生活はなくなってしまう.しかし,科学は地球破壊,人類滅亡の手段ともなっている.だからといって,いまさら原始時代の生活にはもどれない.世界の飢餓や地球の環境破壊を救えるのは,一人一人の意識とそれを支える科学だ.そのための基礎として数学を学ぶわけだ.さらに,現代の民主主義を支えるのも「科学技術」です.直接民主制はせいぜい学校の生徒総会が人数の上限.民主主義が成り立つには,知りたい情報がいつでも手に入れることができることが必要.情報を手に入れるには「科学技術」の支えがなくてはできません.



自己PRから

「少しのことではへこたれないのでしごいてください」
人生修行ですね.苦労は買ってでもせよと,昔から言われます.現代社会はなかなか苦労できないですから.
「学ぶ意味はよくわからない」
これがみんなの本音でしょう.本当の意味で学ぶ意味がわかるのは「全て学んでから」でしょうね.数学に限らず食わず嫌いはよくない.勝手に自分を「文系,理系」と興味の範囲を制限すること自体,自分の能力を矮小化して狭めていることに気付くべきだと思う.
「なかなかやり方を思いつかない」
これは普通のこと.受験生で全てのやり方を自分で気付いた人は皆無のはず.つまり大抵は答えを見て理解してやり方を覚えたのだ.数学を学ぶ目的が「問題を解くこと」に堕しているひとの勉強法だ.もちろん,目前に「受験」が迫っているならある程度仕方がないが,「これが数学」と思われると,数学がいかにも安っぽいよ.本当は「考えること」だ.それが人間の証だから.
「答えを求めるのが数学」
「問題を解く」のは数学理解の手段であって,目的ではない.数学を通じて,数学的世界観や発想,思考を身に付けるのであって,決して「問題を解く」のが目的ではない.
「苦手だけど好き」
こりゃまったく私と同じです.得意といえる人がうらやましい.得意だったら教員なんかやってない.研究者になっていた.そんな実力がないけど,好きだから教員をやっている.職業としての研究者ではないが,研究はしているつもり.
「高校の数学は難しくて大変そう」
だから楽しい.難しくて大変そうだからファイトが沸きませんか?楽したいならサルと同じかも.
「医師も目指したいけど,歌手になるのも夢」
夢は大きければ大きいほどいい.どうせかなわないのだから.もしかなったならめっけもの.かなわなくても大きな夢に向かっての死に物狂いの努力は人生の宝になる.要領のよさだけでも,この豊かで平和な世の中はわたれるが,残るのはむなしさだけだろうなぁ.
「自分は理系じゃない」
理系じゃなくても,高校程度の数学の素養は必要.私は3年で選択になる数学Ⅲと古文Ⅱは全員必修であるべきだと思う.
「自分は頭が硬い」
よく「若い柔軟な頭脳」という言い方をします.私は間違っていると思います.若者は常識を覆して,新しい文化を生み出すだけであって,それは柔軟な頭脳ではないと思います.柔軟な頭脳は訓練によってしか身につきません.したがって,本当なら年寄りほど頭脳は柔軟です.しかし,若い頃の頭の硬さのまま,やわらかくすることなく年をとり,硬い頭脳ゆえ「常識どおり」の楽な生き方をする年寄りが多いだけです.よくテレビの取材を受けるようなクリエイティブなお年寄りを見ると「この人は,今でも発展中だな」と思います.そういう人は若者のようにイタズラに常識を覆すこともしませんが,かといって決して頭脳は硬くありません.あこがれるなぁ.一生修行するしかありませんね.
「平等な授業にしてほしい」
平等ってどんな意味だろう.「字の大きさ,声の大きさなど座席の位置による不平等を・・・」そういうことね.そのくらいは気をつけられるな.まぁ,聞こえないときや見えないときはその都度教えてくれればいい.法律などの社会制度は万人に平等であるべきだろうが,おれは「制度」じゃなくて「人間」だからなぁ.自分自身は,不平等や理不尽やえこひいきが好きだから困る.世の中,制度は平等でも,人間は不平等.だって,それが普通の社会だ.自分の生まれた家を見ればわかるでしょ.隣のうちとはだいぶ違うはず.私の場合は特に,何らかのペナルティーを科すときは理不尽なことが起きるといってよい.あ,でも,成績は平等につけるよ.ペナルティーは記録しないから大丈夫.つまり記録しないゆえ,行き当たりばったりの思いつきのものになるんだ.成績は記録できる客観的で数値化が可能なものだけでつけるから心配ご無用.
「授業中に寝てしまうかも」
高校は義務教育じゃないから,自分の責任で,いいんじゃない.睡眠して,留年でも退学でも,選択肢はいろいろあるよ.まぁ,テストでいい点取れば大丈夫.中学校は全部休んでも卒業したいといえば,卒業可能だけど,高校は不可能.でも,数学は独学はまず無理だ.予習復習はできなくても,授業は大切にして欲しい.授業を理解していれば,予習復習しなくても試験前に何とかなる.これが試験直前に独学になるようでは,ダメだ.最も無駄な時間の使い方だ.
「あれこれ考えるのがすき,未来の地球とか,人間の存在意義とか」
人生の目的はズバリ「遊ぶため.」これは表面的な遊びではなく,苦しみを苦しみとして真剣に対決し,楽を楽として,苦楽ともに遊び演じきるのが人生の目的だと思う.
「試験第一主義の教育に疑問を抱いている」
これは「学校という社会システム」がそうだから仕方がないでしょう.勉強は本来,人間の持っている「知らないことを知りたい」という「本能的な生きる力」で,試験などで他人から強制されるものではない.しかし試験のない世界で,皆が勉強にいそしむほど人間は発達していない.だから馬車馬のように尻をたたかれながら勉強したい人は「学校という社会システム」に乗ればいい.自分の力で勉強が可能な人は,別にそんなシステムに乗る必要はないし,そういう人もたくさんいる.だから高校以上は義務教育ではないのだ.学歴社会を否定し,社会で活躍している人はたくさんいる.
しかし現代の便利な社会を支えてくれている人のほとんどは,そのシステムの中で能力を磨いた人たちです.さらにしかし,学力は常に「能力の一面であって全てではない」ということは忘れてはならないと思う.もっと大切な「人を思いやる心」,「他人の苦しみを自分の苦しみとできる心」,「自然愛護」,「誠実であること」・・・これらを忘れたら,学力は人を幸せにするどころか「凶器」となる.数値化して測ることが出来ないが,本当はこういうことで「競争」してもらいたいものだ.
私は「学力競争」は否定しない.「競争」はギャンブルみたいなもので,本当は「楽しい」はず.当然そうなれば「1位から最下位」まで順位を公開すべき.学業成績などというちっぽけなものはプライバシーではないのだ. 1位や最下位であってもそれは「人間の能力のごくごく小さい部分の評価」なのだから,威張ったり自分を卑下するのは無意味のはず.「学力が全て」だと思うから最下位が恥ずかしかったり,たかが1位で優越感を持つ.こんなくだらないことはないのだが.「笑顔の最下位」ですよ.

2000年4月14日金曜日

創立記念講演

4/10が創立記念日で休みだったのだが,記念の講演会が昨日あった.
寄生虫学で有名な半分タレントの藤田紘一郎先生を講師に迎えました.
つぼを押さえたギャグが楽しく,かつスライドを使いながらとても充実した2時間でした.
藤田先生の著書は「立ち読み」で何冊か読んでいたのですが,ミーはーな私は今回,「サイン入り」の本を2冊購入しました.
1冊は藤田先生を有名にした「笑う回虫」,もう1冊は最新刊の「清潔はビョーキだ!」.
自分は不潔な少年時代をすごしたので,すこしは頑丈かも

2000年4月9日日曜日

お花見

娘が友達と上野公園へお花見に行った.
おむすびをたくさん作っていったら,テレビのインタビューをうけたそうだ.

はなまるマーケットで4月20日(木)に放映されることが決まったんだって.「おにぎり特集」だって.早起きしておにぎりを作ったかいがあったようだ.

満開

今年も満開


2000年4月7日金曜日

今日は入学式

今年から1年生の担任で,今日は入学式.
緊張した1年生を見ているとこっちまで緊張してしまう.おちゃらけてみうと思ったけど,まじめな1年生がどれだけ受けてくれるか不安だったし,はずしたときの気まずさを思うと,とてもその勇気はなかった.
基本的に自分は人前で話をするのが苦手だということを,今日の1日で再認識できた.
授業はギャグも含めてシナリオができているからなー.でも来週からはぶっとぶぞー.

かわもとくんの妹がいた.

2000年4月1日土曜日

バレエの発表会

30日は娘が習っているモダンバレエ教室の発表会でした.

今回最年少のたぶん3歳くらいの子.
こんな小さい子が一生懸命じょうずに踊るのを見てるとけなげで,涙がでてきます.娘が習い始めたころを思い出しました.


こちらはムスメ.中学生以上は衣装のデザインや選曲,振り付けを自分でします.モチベーションが高いので表現力は圧倒的.

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