1997年12月22日月曜日

1997年度学年通信「さぼてん」より 12月22日

で,どうするか

の問いに対しては,ふつう次のような答えが返ってくることが多い.

  1. 「できない」という現実的な答え
  2. 非現実的なとっぴな解決方法
「できない」とあきらめるのが簡単だし現実的だから,多くの人は現実の閉塞状況に絶望して,あきらめのため息をつく.
「とっぴな解決方法」というのは奇抜な考えながら,逆説的な深い考察もなされていたりして,結構おもしろいと納得させられたりするものであるが,結局は「できない」とあきらめているのと大差はない.
たとえば「現代文明が諸悪の根源だから,自給自足の生活をしよう」などは好例.
私に言わせれば「観念の遊戯」である.
まぁ,実際にやっている人もいて尊敬するが,独り善がりだと思う.
いったいそれでアフリカの飢餓の子供を何人救えるのだろう.
アフリカの飢餓は地球にやさしいからそのまま続けていろとでもいうのだろうか.

ではどうするか.
前回まで書いた,「生命の尊厳」「非暴力」「反権力」「利他の精神」をみんなで共有すればよい.
こういうと「そんなの無理だよ」と思う人もいることだろう.
短気を起こすのはテロと同じでだめだというのは,前に書いた.
現実から目をそらさずに,まっすぐ見ることも書いた.
書いていないのはその実現方法だが,それはただひとつ.
その理想を

隣の人に話す

しかない.
いちばん簡単そうで実は一番難しいことだよ.

人間は命令されて動くものではない.
まずは利害で動く.
しかし利害だけで動いた結果が,現代社会だ.
つぎに理想に燃える使命感と責任感が人間を動かす.
過去の多くの革命がそうだったように.
利害から使命感へ.
それに気づかない人がいたら,徹底的に話し,粘り強く対話する.
短気を起こして権力を行使したら一瞬にして人間不在になってしまう.
非暴力は比較的浸透しているようだが,反権力,利他の精神はまだまだである.

「そんなことじゃ何年かかるかわからないよ」と思うかもしれない.
でも,他に方法があるなら教えてもらいたいものである.
社会制度を変えるとか,教育制度を変えるとか,システムを変えるというやりやすいことは今までも曲がりなりにも繰り返されてきた.
そして,システムを変えて,そこに安住しすぎていたのである.
あとやることはひとつ,一人一人が自覚するだけ.
だからそれには自覚した人が,まだ気づいていない人に徹底的に粘り強く対話するしかない.
これが遠回りのようで一番の近道です.

たとえば「民主主義=多数決」と思ってはいないだろうか.
議論もろくにせず多数決で決めてしまおうとする姿勢は,以前に書いた権力主義(多数決の暴力)であり,民主主義ではなく多数決主義といえる.
民主主義の基本は徹底した対話と議論です.
そしてすべての主張の考えられうる利点と問題点を列挙したうえでの最終判断としての多数決がある.

ろくに対話もせずに「○○が悪い」と指摘するのは簡単.
対話をしよう.
議論しよう.
そしてどうすればよいか現実的な思索をしよう.

混沌の東葛高校だって同じだよ.
何人かの問題意識のある生徒の存在は知っている.
しかし,それが広まらないのは,「言ってもしょうがないよ」とあきらめているからじゃないのか?
あきらめて,ため息だけでは絶対に解決しない,無理だと思えば永久に進展しない.
必ず解決するとの信念を持ち,粘り強く対話を進めれば必ず解決する.

私は楽観主義者なのかもしれない.
「人はだれでもすばらしい個性をもっている」というのは私の信念というか,これこそが思想である.
それに訴えれば必ず理解してもらえると信じているから,対話で解決すると信じます.
この小文はみなさんのすばらしい個性に訴えているつもりです.
悲観しては絶対に解決しないからね.

悲観する人のとる態度は権力行使だよ.
つまり短気を起こして,人に命令する,あるいは無視してまなざしの暴力をふるう.
完全に人間不在だね.
人間として生まれてせっかく言葉がしゃべれるのだから,どんどん話そうよ.
これを読んだ人の中で一人でも共感する人が出てくれれば,この小文の目的は達成です.
そのなかから,対話の行動に打って出る人が現れてくれればもういうことはない.

1997年12月16日火曜日

1997年度学年通信「さぼてん」より 12月16日

管理

東葛高校は見てのとおり,さながら「無法地帯」と言ってもよいくらい「乱れて」いて,「管理教育が必要かも」という考えを持つ人が,生徒の中にも出てくる.
「管理」というのは「権力」をふるえばよいので,コストはかからない.
そして,見た目は「規律正しく」見えるようになる.
学校が生徒に権力をふるうのはたやすいことである.
成績とか内申書とか在籍という伝家の宝刀をちらつかせればそれでよいから.
管理に従わない生徒は教育方針に合わないというもっともな理由をつけて退学させればよい.
そこまでいかなくとも,管理教育は楽なものである.
生徒の話を聞くことなく規律違反を指摘すればすむから.

管理教育というのは生徒に権力を振るうという一面のほかに,
それによって生徒を大人の保護下に囲い込むという面がある.
つまり生徒を子ども扱いをして考えない人間を大量生産するのである.
これはこの数十年以上「普通の」学校で行われてきた教育に他ならない.
その結果がこの乱れた現代社会である.
考えない人間がそのまま社会に大量に送り込まれているのである.

行動経済成長のころは考えずに会社に忠誠を尽くす人間が重宝された.
企業も世界から隔絶されたニッポンのなかでぬくぬくしていたので,これでよかった.オイルショック以降,会社も生き残りのために考える人間をほしがるようになが,残念ながら,管理教育の甘い汁を捨てきれない学校は変わることがなかった(変わったのは東葛高校くらい).
以前書いたように,一度手にした権力は手放したくないものである.
会社は金儲けという目標があるから,儲けるための権力構造を変えることなく,考える社員の育成に取り組めたが,学校の持つ権力は小手先の管理教育のみでそれを捨てることは学校そのものの否定につながるため,何も変わらなかったし,それどころか多くの学校で管理強化が進んでいる.
東葛高校はこの十年くらいの間に,ずいぶん乱れてきたようである.
これは中学の管理強化の結果,考えない生徒が増えたのも原因の一つかもしれないし,さらには教師集団も教師自身が受けた管理教育の結果,残念ながら教師集団の指導力が落ちているのも原因だろう.
生徒の中に管理教育是認の考えが出てくる理由は,まずこの乱れた状況を「なんとかしなきゃ」と思うことから始まる.
それは大変よいことだが,それに対して無力な自分を思うと,「学校で管理教育始めてくれないか」ということになるわけだ.
これも「自分の手を汚さず,学校をよくしよう」という前々回書いた自分は手を下さないという形の権力行使なわけだ.
われわれ教員にとっても「規則だから守れ!」というは楽だから,自分で手を下さず規則に教育させる権力体質を持っている.

社会の閉塞状況をどうするか,というのは実は混沌の東葛高校をどうするか,と同じである.学校はシステムなので,管理教育の導入はたやすい.
行政がその気になればいつでも東葛高校に管理教育を導入できる.
まず管理教育にふさわしくない教員が転勤させられる.
そうすると,自治が崩壊しつつある生徒集団も組織的に反対することは難しいだろう.
PTAも管理教育を前にすると,子供が人質にとられていると考えるようになるから,反対しないどころか,さらには管理教育で子供がよい子になると思う勢力が台頭し,賛成するかもしれない.

でもみんなにはすでに使っている最終兵器「なしくずし」があるから大丈夫.
心の通わない管理教育にはハイハイと生返事して,背中を向けて舌を出すという手がある.
しかしこれは社会の閉塞状況の解決には通用しない.
社会で通用しないことを学校で導入しても本質的な解決にはならない.
社会が何でもありなのに,学校だけが管理したらどうなるか.
学歴社会のおかげで学校から逃げ出せずにいる生徒は,「生返事,舌出し人間」つまり利己的で要領だけがよい人間となっていく.
たぶん見た目は今より規律正しく見えるようになるだろう.
そして,学校は悪を社会に責任転嫁して自己満足にひたり,ますます社会が悪くなっていくのである.

で,どうするか.社会も学校のように管理強化するか.
管理強化したい勢力もある.
さらには短気を起こして暴力で社会変革しようとするのがテロである.

結局,管理も「粘り強い対話は手間がかかる」から,短気を起こして用いる手段だ.
私に言わせれば,管理教育は精神のテロといわざるをえない.

なかなか第1回の「どうするか?」の答えにたどりつかないな.
毎回書こうとして,話がそれてしまう.次回は必ず書くぞ!

1997年12月8日月曜日

1997年度学年通信「さぼてん」より 12月8日号

席を譲ろう

学級日誌に電車の座席を譲る難しさ(譲ったら「そんな年寄りではない」と言われ気まずかった)が書かれていた.
私の対処方法を伝授しましょう.

以前私は「すわらない」という方法をとっていました.
特に学生のころは「この年で座るのはみっともない」とすら思っていました.
でも,これだと「本当に必要な人に席を譲れない」という重大な欠陥があることに気づき,今では,ゆっくりと座れるときは座るようにしています.
私が座席に座るのは,必要な人へのリザーブです.

で,難しい譲り方ですが,荷物がたくさんあったり手を伸ばせなくてつり革につかまるのが苦しいお年寄りなど,明らかに譲るべき人の場合声をかけて譲ります.
このようなお年よりは,出入り口付近の手すりにつかまっていることが多いので,かなり遠くても声をかけて譲るのです.
まぁ,これはだれでも出来るでしょう.万一断られちゃったら,座りなおすのも気まずいので,さっさと「次で降りますから」と他の車両へ逃げます.

次に,断られる可能性のある(つまり弱者扱いされたくない)人の場合ですが,これは向こうから近づいてくれないことにはスマートに譲れないので,遠くにいる人には譲れなくて残念です.
どうするかというと,声をかけずにいかにも「用事を思い出した!」という雰囲気で席を立ち,さっさとその場を離れ,他の車両に乗り換えるのです.
停車中なら電車から降りて違う車両に移ります.
こうすると,親切の押し売りにならず,気まずい思いをすることなく座席を譲れますよ.
問題は.自分ひとりで乗車しているときではない場合,この「立ち去る」というワザが使えないのです.
このときは,私ははじめから「座らない」ワザで対処しますが,必要な人のためのリザーブが出来なくて申し訳なく思います.

さて,第1回に社会の閉塞状況を指摘して,それについての態度を考えてもらいました.
それに対し,「環境問題を除いて,人を人と思わない意識に起因する」という原因を指摘してくれた人がいました.
そう,常に社会で起きていることについて思索することは大切なことです.
一人の人間の幸福,充足感というものは,結局人類全体のそれでなくては単なる利己主義者で意味のないものです.
利己主義を捨て,社会全体に目が行くというのはそのような社会実現への第1歩です.
僕らの力は地位差が,その一つ一つの集まりが社会を形成しています.

で,人を人と思う社会をどう築くか.
戦争をなくすには?
いじめをなくすには?
さべつをなくすには?
自分はどうするか.
紙面が尽きた.

1997年12月1日月曜日

1997年度学年通信「さぼてん」より 12月1日号

権力

前回まで,「権力」ということばを「公権力」という狭い意味で用いたけど,広い意味ではどこにでも転がってます.

自分が手を下さなくても誰かが代わりにやってくれるという立場の人を「権力者」といい,権力意識はその自分の立場を特権的に守ろうとするとき,誰にでも出現する.
それは,「今のままでいい」「違う立場に関心ない」「違う立場より自分が優位だと思いたい」という欲望で,認識面では「決めつけ」「単純化」,行動面では「優柔不断」「他者への命令」が特徴.(ミシェル・フーコー 要旨)

私はこの権力意識はある種の動物的本能,自己防衛本能だとおもいます.
簡単に言うと,例えば「高卒なんて馬鹿さ」という連中がいます.
そういう大卒の連中は頭がよいのでしょうか.
決してそうではないですね.
これが権力意識です.
「女だからそんな仕事は無理だ」というのいます.
「○○出身だから」「○○党だから」「障害者だから」「○○教だから」「○○病だから」(きめつけ)等々あげればきりがありません.

つぎにいじめにあってる子がいるとします.
いじめる人はもちろんですが,実はそれを見て見ぬ振りをしている人も権力を振るっています.
この場合,見て見ぬ振りをする人は自分を安全地帯において(つまり自分の立場を守って),けっしていじめられる側に身を置こうとはしません.
これは「まなざしの暴力」という名の権力行使です.

直接権力を下さなくても卑怯な傍観者は権力の味方になるのですよ.
「悪いことをすること」,「よいことをしないこと」は同じか違うか.
「よいことをしないことは」かならず悪い権力の味方になります.
つまり不善は悪と同じです.
したがって,「みんながそうだから」,「習慣だから」,「しきたりだから」と無批判に従うのも,どこかで何らかの権力の味方になります.
先日の卒入対委員会の討論でこういった理由で意見を述べる生徒もいて「若いのに保守的だな」などと思いました.
「しきたり」とか「習慣」といのは,歴史のある時点で作られたものに過ぎず,結構一部の特権保持に役立っているものも多い.
「常識は時間の関数である」(A.アインシュタイン)

「それで傷つく人,いやな思いをする人はほんとうに誰一人いないのか?」という意識をもってほしいものです.
でないと,知らないに間に「いじめる側」に立ってしまうよ.
そのとき「知らなかった」では済まされない.
というより「知らなかった」で済ましてきてしまったのがこの社会です.
権力は今後も「知らないふり」で通そうとしています.
「人権」「権力」に対する感性を磨いてね.
「誰かを傷つけるかもしれないから怖い」と思うかもしれない.
でも社会が悪いといってるだけじゃ世の中よくならない.
失敗してもいいじゃない.今から始めよう.

こういうことを書くと,社会的地位が高くなることが悪いことのように聞こえるが,そうではないよ.
今,社会的地位の高いやつにろくなやつがいないから「なりたくないよ」と思うかもしれないが,みんなの中には,いやでも社会的地位が高くなる人もいると思う.
そのとき,弱者から収奪する「弱者利用の権力者」ではなく,社会的弱者に希望を与える「弱者奉仕の指導者」になれば,それだけで社会は少しよくなる.
そのために今から「利己主義の傍観者」をやめて「人道主義の行動者」を目指して勉強,思索,行動を開始してほしい.
勉強の目的はそこのあるんだよ.
行動する中でのみ自分が磨かれる.
その行動で,自分の美学,思想を確立してください.