1997年12月22日月曜日

1997年度学年通信「さぼてん」より 12月22日

で,どうするか

の問いに対しては,ふつう次のような答えが返ってくることが多い.

  1. 「できない」という現実的な答え
  2. 非現実的なとっぴな解決方法
「できない」とあきらめるのが簡単だし現実的だから,多くの人は現実の閉塞状況に絶望して,あきらめのため息をつく.
「とっぴな解決方法」というのは奇抜な考えながら,逆説的な深い考察もなされていたりして,結構おもしろいと納得させられたりするものであるが,結局は「できない」とあきらめているのと大差はない.
たとえば「現代文明が諸悪の根源だから,自給自足の生活をしよう」などは好例.
私に言わせれば「観念の遊戯」である.
まぁ,実際にやっている人もいて尊敬するが,独り善がりだと思う.
いったいそれでアフリカの飢餓の子供を何人救えるのだろう.
アフリカの飢餓は地球にやさしいからそのまま続けていろとでもいうのだろうか.

ではどうするか.
前回まで書いた,「生命の尊厳」「非暴力」「反権力」「利他の精神」をみんなで共有すればよい.
こういうと「そんなの無理だよ」と思う人もいることだろう.
短気を起こすのはテロと同じでだめだというのは,前に書いた.
現実から目をそらさずに,まっすぐ見ることも書いた.
書いていないのはその実現方法だが,それはただひとつ.
その理想を

隣の人に話す

しかない.
いちばん簡単そうで実は一番難しいことだよ.

人間は命令されて動くものではない.
まずは利害で動く.
しかし利害だけで動いた結果が,現代社会だ.
つぎに理想に燃える使命感と責任感が人間を動かす.
過去の多くの革命がそうだったように.
利害から使命感へ.
それに気づかない人がいたら,徹底的に話し,粘り強く対話する.
短気を起こして権力を行使したら一瞬にして人間不在になってしまう.
非暴力は比較的浸透しているようだが,反権力,利他の精神はまだまだである.

「そんなことじゃ何年かかるかわからないよ」と思うかもしれない.
でも,他に方法があるなら教えてもらいたいものである.
社会制度を変えるとか,教育制度を変えるとか,システムを変えるというやりやすいことは今までも曲がりなりにも繰り返されてきた.
そして,システムを変えて,そこに安住しすぎていたのである.
あとやることはひとつ,一人一人が自覚するだけ.
だからそれには自覚した人が,まだ気づいていない人に徹底的に粘り強く対話するしかない.
これが遠回りのようで一番の近道です.

たとえば「民主主義=多数決」と思ってはいないだろうか.
議論もろくにせず多数決で決めてしまおうとする姿勢は,以前に書いた権力主義(多数決の暴力)であり,民主主義ではなく多数決主義といえる.
民主主義の基本は徹底した対話と議論です.
そしてすべての主張の考えられうる利点と問題点を列挙したうえでの最終判断としての多数決がある.

ろくに対話もせずに「○○が悪い」と指摘するのは簡単.
対話をしよう.
議論しよう.
そしてどうすればよいか現実的な思索をしよう.

混沌の東葛高校だって同じだよ.
何人かの問題意識のある生徒の存在は知っている.
しかし,それが広まらないのは,「言ってもしょうがないよ」とあきらめているからじゃないのか?
あきらめて,ため息だけでは絶対に解決しない,無理だと思えば永久に進展しない.
必ず解決するとの信念を持ち,粘り強く対話を進めれば必ず解決する.

私は楽観主義者なのかもしれない.
「人はだれでもすばらしい個性をもっている」というのは私の信念というか,これこそが思想である.
それに訴えれば必ず理解してもらえると信じているから,対話で解決すると信じます.
この小文はみなさんのすばらしい個性に訴えているつもりです.
悲観しては絶対に解決しないからね.

悲観する人のとる態度は権力行使だよ.
つまり短気を起こして,人に命令する,あるいは無視してまなざしの暴力をふるう.
完全に人間不在だね.
人間として生まれてせっかく言葉がしゃべれるのだから,どんどん話そうよ.
これを読んだ人の中で一人でも共感する人が出てくれれば,この小文の目的は達成です.
そのなかから,対話の行動に打って出る人が現れてくれればもういうことはない.

1997年12月16日火曜日

1997年度学年通信「さぼてん」より 12月16日

管理

東葛高校は見てのとおり,さながら「無法地帯」と言ってもよいくらい「乱れて」いて,「管理教育が必要かも」という考えを持つ人が,生徒の中にも出てくる.
「管理」というのは「権力」をふるえばよいので,コストはかからない.
そして,見た目は「規律正しく」見えるようになる.
学校が生徒に権力をふるうのはたやすいことである.
成績とか内申書とか在籍という伝家の宝刀をちらつかせればそれでよいから.
管理に従わない生徒は教育方針に合わないというもっともな理由をつけて退学させればよい.
そこまでいかなくとも,管理教育は楽なものである.
生徒の話を聞くことなく規律違反を指摘すればすむから.

管理教育というのは生徒に権力を振るうという一面のほかに,
それによって生徒を大人の保護下に囲い込むという面がある.
つまり生徒を子ども扱いをして考えない人間を大量生産するのである.
これはこの数十年以上「普通の」学校で行われてきた教育に他ならない.
その結果がこの乱れた現代社会である.
考えない人間がそのまま社会に大量に送り込まれているのである.

行動経済成長のころは考えずに会社に忠誠を尽くす人間が重宝された.
企業も世界から隔絶されたニッポンのなかでぬくぬくしていたので,これでよかった.オイルショック以降,会社も生き残りのために考える人間をほしがるようになが,残念ながら,管理教育の甘い汁を捨てきれない学校は変わることがなかった(変わったのは東葛高校くらい).
以前書いたように,一度手にした権力は手放したくないものである.
会社は金儲けという目標があるから,儲けるための権力構造を変えることなく,考える社員の育成に取り組めたが,学校の持つ権力は小手先の管理教育のみでそれを捨てることは学校そのものの否定につながるため,何も変わらなかったし,それどころか多くの学校で管理強化が進んでいる.
東葛高校はこの十年くらいの間に,ずいぶん乱れてきたようである.
これは中学の管理強化の結果,考えない生徒が増えたのも原因の一つかもしれないし,さらには教師集団も教師自身が受けた管理教育の結果,残念ながら教師集団の指導力が落ちているのも原因だろう.
生徒の中に管理教育是認の考えが出てくる理由は,まずこの乱れた状況を「なんとかしなきゃ」と思うことから始まる.
それは大変よいことだが,それに対して無力な自分を思うと,「学校で管理教育始めてくれないか」ということになるわけだ.
これも「自分の手を汚さず,学校をよくしよう」という前々回書いた自分は手を下さないという形の権力行使なわけだ.
われわれ教員にとっても「規則だから守れ!」というは楽だから,自分で手を下さず規則に教育させる権力体質を持っている.

社会の閉塞状況をどうするか,というのは実は混沌の東葛高校をどうするか,と同じである.学校はシステムなので,管理教育の導入はたやすい.
行政がその気になればいつでも東葛高校に管理教育を導入できる.
まず管理教育にふさわしくない教員が転勤させられる.
そうすると,自治が崩壊しつつある生徒集団も組織的に反対することは難しいだろう.
PTAも管理教育を前にすると,子供が人質にとられていると考えるようになるから,反対しないどころか,さらには管理教育で子供がよい子になると思う勢力が台頭し,賛成するかもしれない.

でもみんなにはすでに使っている最終兵器「なしくずし」があるから大丈夫.
心の通わない管理教育にはハイハイと生返事して,背中を向けて舌を出すという手がある.
しかしこれは社会の閉塞状況の解決には通用しない.
社会で通用しないことを学校で導入しても本質的な解決にはならない.
社会が何でもありなのに,学校だけが管理したらどうなるか.
学歴社会のおかげで学校から逃げ出せずにいる生徒は,「生返事,舌出し人間」つまり利己的で要領だけがよい人間となっていく.
たぶん見た目は今より規律正しく見えるようになるだろう.
そして,学校は悪を社会に責任転嫁して自己満足にひたり,ますます社会が悪くなっていくのである.

で,どうするか.社会も学校のように管理強化するか.
管理強化したい勢力もある.
さらには短気を起こして暴力で社会変革しようとするのがテロである.

結局,管理も「粘り強い対話は手間がかかる」から,短気を起こして用いる手段だ.
私に言わせれば,管理教育は精神のテロといわざるをえない.

なかなか第1回の「どうするか?」の答えにたどりつかないな.
毎回書こうとして,話がそれてしまう.次回は必ず書くぞ!

1997年12月8日月曜日

1997年度学年通信「さぼてん」より 12月8日号

席を譲ろう

学級日誌に電車の座席を譲る難しさ(譲ったら「そんな年寄りではない」と言われ気まずかった)が書かれていた.
私の対処方法を伝授しましょう.

以前私は「すわらない」という方法をとっていました.
特に学生のころは「この年で座るのはみっともない」とすら思っていました.
でも,これだと「本当に必要な人に席を譲れない」という重大な欠陥があることに気づき,今では,ゆっくりと座れるときは座るようにしています.
私が座席に座るのは,必要な人へのリザーブです.

で,難しい譲り方ですが,荷物がたくさんあったり手を伸ばせなくてつり革につかまるのが苦しいお年寄りなど,明らかに譲るべき人の場合声をかけて譲ります.
このようなお年よりは,出入り口付近の手すりにつかまっていることが多いので,かなり遠くても声をかけて譲るのです.
まぁ,これはだれでも出来るでしょう.万一断られちゃったら,座りなおすのも気まずいので,さっさと「次で降りますから」と他の車両へ逃げます.

次に,断られる可能性のある(つまり弱者扱いされたくない)人の場合ですが,これは向こうから近づいてくれないことにはスマートに譲れないので,遠くにいる人には譲れなくて残念です.
どうするかというと,声をかけずにいかにも「用事を思い出した!」という雰囲気で席を立ち,さっさとその場を離れ,他の車両に乗り換えるのです.
停車中なら電車から降りて違う車両に移ります.
こうすると,親切の押し売りにならず,気まずい思いをすることなく座席を譲れますよ.
問題は.自分ひとりで乗車しているときではない場合,この「立ち去る」というワザが使えないのです.
このときは,私ははじめから「座らない」ワザで対処しますが,必要な人のためのリザーブが出来なくて申し訳なく思います.

さて,第1回に社会の閉塞状況を指摘して,それについての態度を考えてもらいました.
それに対し,「環境問題を除いて,人を人と思わない意識に起因する」という原因を指摘してくれた人がいました.
そう,常に社会で起きていることについて思索することは大切なことです.
一人の人間の幸福,充足感というものは,結局人類全体のそれでなくては単なる利己主義者で意味のないものです.
利己主義を捨て,社会全体に目が行くというのはそのような社会実現への第1歩です.
僕らの力は地位差が,その一つ一つの集まりが社会を形成しています.

で,人を人と思う社会をどう築くか.
戦争をなくすには?
いじめをなくすには?
さべつをなくすには?
自分はどうするか.
紙面が尽きた.

1997年12月1日月曜日

1997年度学年通信「さぼてん」より 12月1日号

権力

前回まで,「権力」ということばを「公権力」という狭い意味で用いたけど,広い意味ではどこにでも転がってます.

自分が手を下さなくても誰かが代わりにやってくれるという立場の人を「権力者」といい,権力意識はその自分の立場を特権的に守ろうとするとき,誰にでも出現する.
それは,「今のままでいい」「違う立場に関心ない」「違う立場より自分が優位だと思いたい」という欲望で,認識面では「決めつけ」「単純化」,行動面では「優柔不断」「他者への命令」が特徴.(ミシェル・フーコー 要旨)

私はこの権力意識はある種の動物的本能,自己防衛本能だとおもいます.
簡単に言うと,例えば「高卒なんて馬鹿さ」という連中がいます.
そういう大卒の連中は頭がよいのでしょうか.
決してそうではないですね.
これが権力意識です.
「女だからそんな仕事は無理だ」というのいます.
「○○出身だから」「○○党だから」「障害者だから」「○○教だから」「○○病だから」(きめつけ)等々あげればきりがありません.

つぎにいじめにあってる子がいるとします.
いじめる人はもちろんですが,実はそれを見て見ぬ振りをしている人も権力を振るっています.
この場合,見て見ぬ振りをする人は自分を安全地帯において(つまり自分の立場を守って),けっしていじめられる側に身を置こうとはしません.
これは「まなざしの暴力」という名の権力行使です.

直接権力を下さなくても卑怯な傍観者は権力の味方になるのですよ.
「悪いことをすること」,「よいことをしないこと」は同じか違うか.
「よいことをしないことは」かならず悪い権力の味方になります.
つまり不善は悪と同じです.
したがって,「みんながそうだから」,「習慣だから」,「しきたりだから」と無批判に従うのも,どこかで何らかの権力の味方になります.
先日の卒入対委員会の討論でこういった理由で意見を述べる生徒もいて「若いのに保守的だな」などと思いました.
「しきたり」とか「習慣」といのは,歴史のある時点で作られたものに過ぎず,結構一部の特権保持に役立っているものも多い.
「常識は時間の関数である」(A.アインシュタイン)

「それで傷つく人,いやな思いをする人はほんとうに誰一人いないのか?」という意識をもってほしいものです.
でないと,知らないに間に「いじめる側」に立ってしまうよ.
そのとき「知らなかった」では済まされない.
というより「知らなかった」で済ましてきてしまったのがこの社会です.
権力は今後も「知らないふり」で通そうとしています.
「人権」「権力」に対する感性を磨いてね.
「誰かを傷つけるかもしれないから怖い」と思うかもしれない.
でも社会が悪いといってるだけじゃ世の中よくならない.
失敗してもいいじゃない.今から始めよう.

こういうことを書くと,社会的地位が高くなることが悪いことのように聞こえるが,そうではないよ.
今,社会的地位の高いやつにろくなやつがいないから「なりたくないよ」と思うかもしれないが,みんなの中には,いやでも社会的地位が高くなる人もいると思う.
そのとき,弱者から収奪する「弱者利用の権力者」ではなく,社会的弱者に希望を与える「弱者奉仕の指導者」になれば,それだけで社会は少しよくなる.
そのために今から「利己主義の傍観者」をやめて「人道主義の行動者」を目指して勉強,思索,行動を開始してほしい.
勉強の目的はそこのあるんだよ.
行動する中でのみ自分が磨かれる.
その行動で,自分の美学,思想を確立してください.

1997年11月25日火曜日

1997年度学年通信「さぼてん」より 11月25日号

学問の自由

先日の学年PTA企画のパネルディスカッションで「大学の授業はつまらないものが多い」という現役大学生の声があった.
逆に「面白い授業」とは何だろう.
「ためしてがってん」とか「動物奇想天外」とかも「授業」とすれば面白いほうかもしれない.
テレビのようなメディアの特性として,視聴者に「頭を使って考える」ということを要求できない.
逆にそれを要求すると「教育テレビ」みたいなつまらないものになるかもしれない.
もしかして,面白い授業は「頭を使わずにわからせてくれる授業」と思ってはいないか.

「面白い授業がよい」と言われるようになったのはいつのころからだろう.
少なくとも,私が高校生のころはそれを期待してはいなかった.
当時「○○先生の授業は面白い」というのはあったかもしれないがそれは「個性」であって,だからといって「つまらない授業をする××先生よりよい」とは思わなかった.
つまらなくても一定のレベルさえあればみなそれに期待していた.
まぁ,高校進学率が9割を超えた昨今では学問的レベルより,
「授業の面白さ」で生徒を惹きつける必要はあると思う.
しかし大学の授業にそれを期待すべきではない.
大学の先生は「教育者」である以上に「研究者」であるべきで,学生へのおべっかにうつつを抜かすひまがあったら,学問の研究を進めてもらいたいと私は思う.
授業のレベルについてこれない学生は落とせばいいのだ.
大学が,中学や高校のようになったら意味がないと思う.

学問の自由とは,もちろん権力からの束縛を受けないということではあるが,難解な内容,不親切な授業,くだらない受験勉強という邪魔にもめげずに学問を究めるという諸君の権利であるはず.
「知らないことを知りたい」という人間のもっている根源的な欲望の発露が学問であるはず.
それがつまらないと思う人は面白さを期待する前に,さっさと学問から離れてほしい.

学問をつまらなくしているのは学歴社会だと思う.
進学の目的は学問ではなく「学歴」なのだ.
くだらない見栄のための勉強が楽しいはずがない.
テストのために勉強するのはいやなものだが,学歴社会は社会制度だから,ふるいにかけるためにテストがあるし,この制度の中に安住しようとする限り,テストは続くよどこまでも.
そんな中で,それにも負けずに「学問する」のが学問の自由だ.
テストのための勉強がいやな人は,この制度から抜け出して「実力」で世の中を渡り,学歴だけを鼻にかけるやつらをだしぬけばよいし,そういう人もたくさんいる.

それにしても数学は面白い.学問としてこれほど楽しいものはない.

1997年11月17日月曜日

1997年度学年通信「さぼてん」より 11月17日号

言論,表現の自由

学級日誌の記述を学年通信に転載することの是非が前号のサボテンに出ていて,そこには生徒の著作権(無断で転載されない権利)がないとありました.
知らなかったと思うけど,学級日誌の法律上の位置づけは「公募に準ずるもの」だったようにおもう.
公費(税金)を使って紙や表紙が用意されるのも私的なものではないからで,保管場所が教室ではなく教務室の前であるのは,単に教員にとって便利だからではなくて「校内の誰でもが閲覧可能である」ことを保証するためなのです.
公費が投入された公的日誌なら当然のことですね.
だから転載の是非は生徒の著作権ではなく,自由閲覧可能である公的日誌の内容が別の誌面に転載される是非にさかのぼって,議論する必要があるわけです.
逆に記載する生徒は公的であるゆえ,誰に見られても差し支えのない内容を気遣うことが求められます.
本校の良いところは検閲をしないことですね.
これは記載者の良識が求められます.

検閲といえば「言論の自由,表現の自由」なんてことを思い出します.
「言論の自由,表現の自由」というと,「なんでもあり」と履き違えている社会の風潮があって,一部マスコミ等はその錦の御旗の元に人権侵害を繰り返したり,わいせつな出版物を店頭に並べさせたりしています.
皆さんは「言論の自由,表現の自由」の本当の意味を知っていますか?

「言論の自由,表現の自由」というのは「言論表現によって公権力に取り締まられない」だけであって,「なんでもあり」ではありません.
「なんでもあり」と思っている一部マスコミは「知る権利」まで持ち出して個人のプライバシーを晒します.
数年前に,街宣車の音を規制しようと東京都で条例を設けようとして,市民の反対で取りやめになりました.
うるさい街宣車を見ると一見「うるさいから取り締まってくれないかな」と思うかもしれません.
しかし,どんなにうるさくても警察等が取り締まるのは「言論表現の自由」の侵害です.

ではどうするか.うるさいと思う市民が集まって抗議すればよい.
市民の集まりは「公権力」ではないから「自由の侵害」にはあたりません.
つまり「マナーが悪いぞ」と教えればよいわけです.
同様に良識のない出版物は市民の力で排除すればよい.
良識のない出版物を「法律で取り締まってくれ」というのは,そもそもの発想が憲法違反です.
法律で取り締まるのではなく,市民の力で排除する.
これが民主主義というものです.
つまり,人権侵害や公序良俗に反するような腐臭を放つ出版物は,神戸の事件の写真の件のように「店に置かない」,「買わない」ことによって,社会から排除すべきであり,権力による出版差し止めはどう考えても憲法違反です.
逆に市民の不買運動等,市民の側からの排除は言論の自由の侵害にはあたりません.
出版社が何を出版するかは自由,それが言論の自由.
腐った表現でも出版は自由.
ただ市民が「腐ったものは買わない」,「うちの店は腐ったものは置かない」と皆で良識を持って社会から排除すればよい.
それを権力に肩代わりさせてはいけない.

でも店に並べればたくさんの人が覗き見趣味で買うんだろうし,街宣車だって一朝一夕にはなくならない.
これも現代の閉塞状況.
だからといって,権力に判断をゆだねるのは危険だ.
結局一人一人がモラルを確立するしかないわけだ.

道は遠いけどそれしか方法がない.
短気を起こしちゃだめなのよ.

最後に人権侵害某雑誌言い訳
「われわれは国民の知る権利に応えている.それがだめだというのは知る権利の侵害,言論の自由の侵害である.」
これに反論してください.
簡単でしょ.

1997年11月10日月曜日

1997年度学年通信「さぼてん」より 11月10日号

両端揃え命を大切に

未成年の喫煙,飲酒は法律で禁止されている.
それは未成年を束縛しているのだろうか.
その法律で罰せられるのは誰か.
たばこや酒とは次元が違うが,あるアンケートでは薬物の使用も本人の自由であると考える者も増えているようだ.
善悪の判断さえ,本人の自由であるということか.

生物がどのようにその命を維持するかを考えてみよう.
ほとんどの植物は太陽の光からそのエネルギーを得ることが出来る.
それに対し,動物は必ず他の生物を摂取しなければ生命を維持できない.
つまり,動物は他の生物の犠牲の上に生命を維持しているわけだ.
命が大切な理由は何だろう.
養豚場のブタは人に喰われようと思って生きているわけではないし,畑のキャベツだって人に喰われるつもりで生えているわけではない. (喰われたいと思っているのは果実だけ)
みんなが意識しようがしまいが,生命の維持のために,生命の殺戮は行われている.
だから,命が大切なんだよ.
君の命は他の命をもらって維持しているんだ.
だから粗末にしてはいけないし,食べ残しや好き嫌いが良くないことにもつながる.

善悪の判断基準

話は変わるが,善悪というは,相対的なのだろうか,絶対的なのだろうか.
現代は価値観が多様化しているといわれ,「人に迷惑をかけなければなにしてもいい」風潮がある.
つまり,善悪の判断も個人の自由と思われはじめている.
ほんとかな.私は善悪はそんな相対的ではないと考えている.

「命を大切に」でも書いた通り,地球の生命を粗末にする行為はすべて「悪」に違いありません.
人間が地球に対して行っている残虐行為を考えると今すぐ人間をやめたくなるが,生き物の一員である以上自分の命を粗末にすることも地球生命に対する反逆なので「悪」です.
自殺などは私に言わせれば,殺人罪だ
つまり,生きることも悪かもしれないが,だからといって粗末にすることも悪である.
逆に良いこととは,自分も含めて地球のすべての生命を生かす努力をすること.
自分の生命維持のために最小限殺めるのはしかたがない,それがもともと動物の背負っている宿業だから.
だからそのために死んでくれた生命への感謝の気持ちは忘れない.

自分の人生,自分の命だから勝手にしてほしいと思うのは,せっかく命を育んでくれた地球に対する冒涜で「悪」です.
だから人間という生き物である以上,人間として精一杯価値的に生きることが,せめてもの地球への恩返し.

環境,社会,差別… この視点で見るとあらゆるものの善悪が見えるよ.

1997年11月4日火曜日

1997年度学年通信「さぼてん」より 11月4日号

はじめに

「サボテン」の「ひろば」の中に

最後の○○

という言葉が増えてきて,感慨を覚えます.
この時期,一つの節目が近くなり,それぞれに思うことがあるのでしょう.
私のところにも「広報東葛,卒業号」の「卒業生に贈る言葉の原稿依頼」が来ました.

 どうも私は「節目」が苦手で,冠婚葬祭すべて駄目です.
というより,皆がある一つの感動なり悲しみなりを分かち合う場面がどうも苦手です.
文化祭でクラスのみんなが感動している時に担任として何か言えば,普段授業で寝ていたり内職している人でも,素直に心に染み入るのだろうと思います.
でも,なんだか「感動の場面を利用して小言を伝えている」ようでフェアじゃない気がするし,だいいち照れ臭い.

卒業式ではほとんどの人が感動すると思います.
そこで何か言うときっと心に残ると思います.
私の気持ちとしては

「あー!はずかしー」

だから去年の卒業式での私の言葉は,

「卒業おめでとう,お元気で.」

その後のクラスでの最後のホームルームでは,5分で通知表その他配布物を配って「さようなら」.
感動の場面で素直に感動を共有できないというのは,つまらない性格だと思う.
みんながうらやましい.感動の輪の中に入れないというのはさみしいものです.

で,今年もそうなると思うので,今のうちに言い訳をしておいて,その場では言えない普段思うところを書きます.

いま

人類がいるおかげで,地球上の生物の滅亡が速まっているのはみんな知っていることだと思う.
そして食べ物が余って大量の残飯を廃棄する国と,飢餓で苦しむ国があるし,銃声の絶えない地域がある.
それから,報道機関と警察の結託で,無実の罪を着せられた人もいるし,だいたい報道機関の姿勢は「逮捕=有罪」だ.
官僚の賄賂の授受も横行し,企業の不正も絶えないし,政治家は名誉と保身と票にしか頭にないし,モラルもなくなり,「医師や弁護士や教師や警察官もやっぱり人の子だ」という言葉しか出ない破廉恥な事件も多い.
HIVを病気の治療で感染させられた人もいれば,世の中の差別がなくならないことも知っていることと思う.
外国人は理由なく怖がられるかあるいは変に意識されるし,日本宗(正月は神道,葬式は仏教,結婚はキリスト教)から逸脱すると,「常識」を疑われるか変わり者扱いされる.

こういった世界の閉塞状況をどうとらえるか,さらには,解決できるのか.

  1. 自分で解決する
  2. 誰かが解決するだろう
  3. どうせ解決できない.あきらめる
君ならどれにあたる?
テーマを絞っても良いので,学年通信に投稿して下さい.
私も次回までに考えます.

1997年7月13日日曜日

生徒会指導の諸原則

次の11項目は1968年以来,教育改革を経て,職員会議の討論の積み重ねの上に,確立されてきた原則である.



1.生徒の自主的能力を育成する.


補足1.自主的能力とは,生徒たちが皆で決めて,皆で守る能力,および生徒たちが,自分たちの要求をまとめ実現していく能力を言う.現在の生徒に自主的能力があるとは言えない(潜在的にはある)という前提にたって指導する.

2.生徒会を民主的なものとして育成する.


補足2.生徒会も放置しておけば非民主的,官僚主義に陥る.民主主義的方法と,考え方を教えることが必要となる.

3.生徒会が生徒全体のものであるように指導する.


補足3.執行部と生徒会員とに断絶ができたり,学校職員の手足に過ぎなくなっては民主主義は育たない.

4.生徒の十分な討論を保証する.


補足4.たとえその発言が偏ったものであっても,それを封殺してはならない.十分な討論の場を保証することによってその偏りを理解させるべきである.

5.生徒会執行部は生徒のどんな要求でも吸い上げるようにする.


補足5.生徒会執行部が生徒全員の要求に耳を貸さなくなれば,生徒会不信が増大し,無関心を生む.

6.要求を妨げたり,それがまとまらないようにする行動をしない.


補足6.職員にとって不都合な内容の提案だからといってそれを途中で押さえて議論させなかったり,決定を妨げるならば,問答無用の直接行動に生徒を走らせることになる.(もちろん合理的批判をして,生徒に正当な判断を促す助言は大いにすべきである.)

7.要求が全生徒のものである限り,最大限尊重する.


補足7.教育的見地からどうしても受け入れられないものあるが,出来うる限り尊重する.(要求の獲得体験も大切である.)

8.民主的な手続きを踏んだものに限り生徒全体の意志とみなす.


補足8.特に全校委員会の決定や,生徒総会の決定は,誠意を持って取り扱い,顧問段階で是非を判断せず,原則として職員会議で審議する.

9.生徒の要求を妨げたり,避けたりしない.


補足9.個々の生徒,個々のグループは逸脱するかもしれない.しかし,生徒全体は,冷静で充分な民主的討論ができれば,大きくは逸脱しないだろう.

10.生徒と職員の意見が食い違ったときは連絡協議会で協議する.


補足10.えてして,顧問は指導責任を追及されるのをおそれて,職員の認めそうもない案を事前につぶそうとするが,かえってそれが生徒の感情的反発を買い,逆効果になりかねない.顧問の指導にも限界のあることを前提にしての連絡協議会であり,時には,職員の総意に基づく話し合いが生徒によい教育の機会になる.

11.職員,父母,生徒の三者の協力と共通理解の上で民主的教育を本校に建設する.


補足11.生徒だけの独走も,職員だけの独走もよくない.常に三者の合意を図るような話し合いの原則こそ東葛飾高校の民主的伝統である.(言うまでもなく,その上での最終判断は職員が行う.)

(注)原文においては,本文と補足は別々に書かれているが,ここではわかりやすいように並べて記した.

1997年7月10日木曜日

Clothoid (クロソイド)

東葛飾高等学校 氏家 悟
1997年7月

(これは千葉県高等学校教育研究会数学部会誌に1997年に掲載したもの)

カーブの走行

自動車を運転していると,たいしたカーブでないのに,カーブの入り口と出口で急ハンドルを切らなければならない場面に遭遇することはないだろうか.それに対し,インターチェンジの中のカーブは,滑らかなハンドル操作で走行することができる.

出入り口で急ハンドルを要求されるカーブは,カーブを円に,直線部分はその円の接線になるように設計されていると考えられる.その理由は,まず直線を走行するときはハンドルは直進のままであり,円を走行するときはハンドルの角度は一定のままのはずである.ここで,直線から円にさしかかるときは,ハンドルを一気に円の走行にあわせなければならないため,急ハンドルを切ることになる.カーブの出口でも同様である.実際は道幅を有効に使って,滑らかにハンドルを回すわけだが,田んぼの中の道のように,狭い道路でも見通しがよくスピードが出ていると厳しい状況になる.

高速道路ではそのようなハンドル操作が要求されることはない.それは,道幅が十分にあるからだけではなく,カーブの出入り口を定速で走行する車は,ハンドルを一定の角速度で回転させればよいような道路設計になっているのである.このような曲線をクロソイド(clothoid)という.道路が円と直線で作られていても,道幅を使って円の一部をクロソイドに沿える自動車は問題無いが,レールの上を走る鉄道では切実な問題となる.自動車のハンドル操作を考えれば,クロソイドに沿って線路を設置しなければ危険極まりない.


図はカーブの内側が円,
外側がクロソイド.クロソイドの方がハンドルを切る量は大きいが,操作が滑らかになる.


求める



ハンドル操作での曲線の定義は素朴で高校生にも理解できる内容なので,
「速度,加速度」の授業で扱えないだろうか,と考えたのがきっかけである.

クロソイドの方程式はどこかの本を調べれば出ていると思ったが,
ハンドル操作から求められるのではないか思い,実際簡単に求められたので本誌に投稿した.

自動車のハンドル操作から考えられるクロソイドの定義は次の通りである.
  • 速さは一定.つまり速度ベクトルの大きさは定数.
  • ハンドルを一定の速さで回転させるので,加速度ベクトルの大きさは時刻に比例して大きくなる.
さて,速さが一定ということから,簡単のため速さが定数の 1 ということにすると,