1998年1月12日月曜日

1997年度学年通信「さぼてん」より 1月12日

本を読む

本の読み方にはいろいろある.
今回は恥ずかしながら,私の心がけている読み方を披露しましょう.

普通,本を読むとは単に情報として内容を受け取るなり,物語ならストーリーを楽しむという読み方をさすと思います.
例えば古くから語り継がれる昔話や,古今の名作と呼ばれるものはまず,ストーリーに惹きつけるものがなければ万人に読みつがれるわけはないので,面白くてあたりまえだと思います.
名作を読んだことがない人がいたら,なにか全集でもよんでごらん.
おもしろいから.
でもこういう読み方は面白いものが面白いで終わってしまって,本を読むというより読まれているといえなくもない.
けど,全く読まないよりは確実に教養が深まる.

もう少し深い読み方としては,いわゆる狭い意味で「文学」としの読み方.
ストーリーの構成,時代背景等に思いをめぐらしながら読む.
さらには著者の世界観や,登場人物に託した人物観を考えながら読むというのがある.
私にとって本を読むとは自分の哲学にすることを心がけることかな.
哲学なんていうと大げさだから,自分の生き方の糧にするというのかな.
あ,でもこれも結局哲学か.
哲学は学問かもしれないが,それ以上に人としての振る舞いの規範だ.
人としてどう振舞うかを言葉にしたとたん,哲学というわけだ.
つまり,自分の振る舞いの糧にする読み方を心がけている.

もっと具体的に.

昔話の「桃太郎」はみんなはどう読むか.
桃が川に流れてきて,中から子どもが生まれるというのは,わくわくするストーリーで,もう「つかみは OK」という感じ.
それが「日本一」の旗立てて,動物の子分を従え悪者の鬼をやっつけるなんてもう,とても痛快なストーリーで,昔話の定番としてふさわしい.
さて,「桃太郎」が作られたのはいつ頃だろう.
その時代の人にとって,登場人物はどういう意味を持つのだろう.
残念ながらわたしはこういうことに興味がないのでしらない.
こういうことを議論するのが文学だと思うけど,私は門外漢なので,違っていたらごめんなさい.

さて,私の読み方はこうです.

登場人物(?)の雉は「我が子を助けるためなら火の中に飛び込む」といわれ,昔から勇気の象徴だったそうだ.
そして,犬は誠実の象徴だそうで,これは現代人も納得できるかも.
サルはやはり知恵の象徴.これで桃太郎を読むと,誠実,知恵,勇気を手に入れるためには物的財産(きび団子)を惜しむな.
そして,誠実,知恵,なにより勇気をもって人生の困難(鬼)に立ち向かえば,人生に勝利できるであろう.

こういう読み方は当然,一通りではないし,かなり個人的といわれればそのとおりである.
しかし,せっかくいそがしい時間をさいて本を読むのだから,十分思索して自分の振る舞いの糧になる読み方をしたいものである.
ただの娯楽なら今は本など読まなくても,現代は十分な娯楽が供給されている.
私は名作が読み継がれる理由は面白さだけではなく,生き方の糧として耐える哲学があるからだと思っている.
今まで,食わず嫌いで本を読まなかった人は,だまされたと思って名作とよばれるものを読んでみよう.
視野が広がるよ.いま,そんなひまはないかな.

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