こんな記述があった.
∀x∈D P(x)∀では「→」が省略され,∃では「∧」が省略されているということ.
は,
∀x(x∈D → P(x))
の略記で,
∃x∈D P(x)
は
∃x(x∈D ∧ P(x))
の略記である.……… ☆
自分は「そうでなきゃ否定命題が整合しない」と思ったが,経験がなければ,鵜呑みにするしか無いだろう.
記号を使わず文にすると,
「すべての~」の記号が「∀」
「ある~」が「∃」
「ならば」が「→」
「かつ」が「∧」(ついでに,「または」は「∨」,否定が「¬」)
なので,
「すべてのx∈D について P(x) を満たす」過去の記事>「すべて」と「ある」
とは,
「すべてのxについて,x∈D ならば P(x) を満たす」
の略記で,
「ある x∈D について P(x) を満たす」
とは,
「ある x について,x∈D かつ P(x) を満たす」
の略記である.
これはもちろん,現実の論理を考えると,意味的にもそうなのだが,意味を剥がした論理の型だけの記述だと,「どうしてちがうの?」と思ってしまう.
「決まりだから覚えろ!」では思考停止.
現実の意味を取り去っても,このように決めるなけれならぬ理由は,否定命題との整合性だろうな.
これは,背理法の仮定「PならばQ」を否定した「PであってQでない」
¬(P→Q) ≡ P∧¬Q ………(ア)
にかかわること.否定すると → が ∧ に変わる.
つまりこういうことである.
高校の教科書に出てくる命題論理での de Morgan の法則は
¬(A∧B) ≡ ¬A∨¬B
¬(A∨B) ≡ ¬A∧¬B
( ≡ は「同値」の意味,否定が「¬」)
P→Q ≡ ¬P∨Q であることから,背理法の仮定は de Morgan の法則で
¬(P→Q)
≡¬(¬P∨Q)
≡¬(¬P)∧¬Q (de Morgan の法則)
≡ P∧¬Q
となる.(二重否定¬(¬P) は肯定P)
さらに述語論理では, de Morgan の法則に
¬(∀xP(x)) ≡ ∃x(¬P(x)) 「すべてのxについてP(x)を満たす」の否定は,「あるxがP(x)を満たさない」と同値
¬(∃xP(x)) ≡ ∀x(¬P(x)) 「あるxについてP(x)を満たす」の否定は,「すべてのxでP(x)を満たさない」と同値
が加わる.
ここで,☆の否定命題を考える.
¬(∀x∈D (P(x)))
≡ ¬(∀x(x∈D → P(x)))
≡ ∃x¬(x∈D → P(x))
≡ ∃x(x∈D ∧ ¬P(x)) ………(ア)の形の変形
≡ ∃x∈D (¬P(x) )
という具合に,→ が ∧ に変わるといえる.
閑話休題
よく,数学の本のはしがきに「本書の理解には高校数学の知識程度でうんぬん」と書かれていたりすることがある.
知識があっても,数学の本を読むというのは,こうした行間を読むリテラシーが要求されたりして,意外とハードルが高い場合が多い.わかっている人間にとっては,難しさがわからないからなおさらである.
たとえば,小学校の算数程度は大人にとって「何が難しいの?」と感じるが,初めて学ぶ小学生には難しいものである.
大人が簡単だと感じるのは人生経験なりリテラシーがあるからで,「足し算の知識程度で十分読める」かも知れない内容であっても,それはわかっている人間にとってのことである.
結局行間を読み取る人生経験なりリテラシーがなければ,「知識だけでは読めない」ということになる.
過去の記事>わかったつもり
別の世界でも,例えば料理の出来る人にとっては,どんな新しい料理もそれまでの経験ですぐに修得できるのだろうが,自分にとっては絶望的なのと同じ.自分の料理のリテラシーは玉子焼きくらいで,だしを取るとか味をつけるという意味がわからない.
そうしたものの典型が,上記のような論理学.
論理というものは
「日常使っている普通の論理から,本質を取り出して単純化したもの」
なのであるが,単純化したからといって,わかりやすくなるものではない.
過去の記事>排他的論理和
そこに「人にモノを教える難しさ」があるのだろう.
自分は記号化することで,すこぶるわかりやすくなったと感じるのであるが(笑
過去の記事>論理計算の例,群の単位元
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