3月11日(木) 3月12日(金) 3月13日(土) 学年通信
T崎<シャトル>H幸
2004.03.16
2004年3月11日(木)12:15(たぶん)我々は,石垣島空港にその足跡を記した.我々一行,O里<お坊ちゃま>K宏,N村<ツアコン>M子,T中<チャキチャキ>M子, U家<ライダー>S,N田<小娘>Y紀,U井<還暦>T,T崎<シャトル>H幸(ミドルネームは推定)の7人は,当然のごとく感激した.もうすぐ台湾という亜熱帯の風が一行を歓迎攻めにしてくれて「(やはり)ここは大和ではない」という感想を強くしたのであった.この感想は,最後まで一行の胸に去来するのだったが.
さて,小腹も空いたことだし,腹ごしらえと称して早速地ビールである.その間おしゃべりに興じている島のオバァー3人の言葉は誰もわからなかったのだが,ソーキそばであり,ゴーヤチャンプルーを速攻でたいらげ,離島桟橋に向かえば,エメラルドグリーンにその白い船体を輝かせる連絡船が,一行を待ち構えているではないか.と思ったのもつかの間,走り出した竹富島行きの船は,一行の想像を超えるスピードを披露し,北朝鮮(推定)工作船もかくや,と思われる速さで波を蹴立てて走るのであり,すれ違う船の横波を食らおうものなら,一躍ジャンプして我々を喫驚させ, 10分で竹富島に着いてしまった.
竹富島は島全体が歴史的景観保存地区に指定され,勝手に家を新築してはならず,赤瓦の平屋を作らなければならない.住民200人と少し,小中学生が18人で先生16人.小娘は思わず,石垣島の竹富町教育委員会に雇ってください,と談判しかけた.竹富島といえば水牛観光だ.「さくら」ちゃんという御年20歳の美貌(人間に換算すれば60歳の)を誇る水牛はまことに経験豊かで,きちんと内輪差を計算しながら狭い白砂の道のカーヴを切っていく.竹富島といえば,「安里屋(あさどや)ユンタ」の本場.若いガイドさんもいきなりサンシンを取り出し,歌ってくれた.シャトルは,翌日自分がこれを踊るとは想像だにしていなかった.ハイビスカスやデイゴやいろんな花が咲き乱れ,蝶々が次々に視界を横切るなかを,ゆっくりと水牛車は行く.「さくら」ちゃんは,なかなかの知恵者で庭木の木陰にさしかかると一休み.木陰がまた涼しいのであった.水牛車を降りると,アクティヴにレンタサイクルで移動.お坊ちゃまはだれもいない(推定)海でひとりナマコと戯れ,ライダーたちはミーハーにも星の砂海岸へでかけた.波が引き,リーフの外海が白い波しぶきをあげている.青い空,白い雲,濃い外海と緑色の環礁を区切る白い波,そしてわずかに茶色い星砂の浜・・・時間が停まったかと思いきや,来るは来るは次から次へとツアー客が押し寄せる.そして星砂をアレンジしたイルカやハートのキィホルダー(5個で1000円)を争うように買っていく(シャトルもその一人であった).亜熱帯の海の貝細工を売っていた青年は,総代を務めたA川クンに似ていた.
石垣島に帰るとすぐに夕食『シェフのお勧めディナー』だった.今回の旅行全体を通じて勉強になったのは「予約がデージ(大事)」である.緯度で15度西にある八重山諸島は実質1時間の時差がある.まだまだ明るい18時にビールに食事なんてとてもお天道様に申し訳がないような気がした.夜,星が出てから外のテラスに集合して,缶ビールと泡盛で野外コンパを始めた.ホテルの照明が邪魔になったものの,よく星が見え,気持ちよい風のなかで飲む泡盛と,まったくまとまりのないユンタク(おしゃべり)に心癒され,その間お坊ちゃまは,60分間のマッサージを受け,小娘・ツアコンは民族衣装の記念写真,シャトルはコインランドリーに出かけ,みな気ままに過ごしつつ,夜はふけたのであった.
「何もしない」旅のはずが,チャキチャキとツアコンを除いてみんなアクティヴになった.ライダーは目当ての250ccバイクが借りられず, 125ccで妥協して石垣島ツーリングに出かけた.帰ってきたときは「200km走りました」「孔雀が森の中にいたけど『あなた野生ですか?』と聞くわけに行かず困った」と楽しんできたようだ.
還暦,小娘,お坊ちゃま,シャトルの四人は西表島に出かけた.「せっかくここまで来たんだから」と思ってしまう自分たちの貧乏性が恨めしい.例の高速船で40分.次々に乗客たちは,待ち受けていたバスに吸収されていく.残された,つまりツアー客でない4人だけが残され,うろうろしていると,レンタカーを借りるしかないことを知らされ(定期バスは一日3便しかない!),すぐにレンタカー屋に拉致された.この時,シャトルは生まれて初めてオートマチック車を運転することとなり,貴重な体験を味わった.しかしこの島の道路は10分間に5台すれ違えば多いと感じるほどの道であり,なをかつ,レンタカーはいくらアクセルを踏み込んでも時速60kmしか出なかったのである.のんびりとしたドライヴを楽しみつつ,美しい海岸線を愛で,海沿いの河口に広がるマングローブと川水の美しさを褒め称えつつ,「こんなに観光客が多いとは思わなかった」だの「カヌートレッキングは予約で一杯とは!」だの「何で平たい島と山がある島ができるのだろう」とユンタクは続いた.お坊ちゃまは「イリオモテヤマネコ」に会いに行くといって別行動でレンタカーを借りていったので,生死不明. 3人のユンタクのさなか,市立柏高校3学年団が沖縄に来ているという情報が伝わり「チッチッチッまだ若いな」と優越感に浸っていると,小娘のケータイに「イリオモテヤマネコを捕獲してきてくれ」とメールが着信.あとで西表野生生物センター(ポケモンセンターのようなものなるか)を訪れたお坊ちゃまの情報によると,いまは怪我をしてリハビリしているイリオモテヤマネコはいなかったので,本物に会えなかった,けれどヤンバルクイナは居たそうであるが,そんなことは知らない3人は,由布(ゆぶ)島にでかけ,またも水牛車に乗って400mの水牛旅行を楽しんだのである.今回乗せてもらった水牛はシンタロウ君(5歳).シャトルの子どもと同じであった.ガイドさんは「安里屋ユンタ」と「十九の春」を歌って歓迎してくれた.沖縄の人たちはほとんど三線が弾けるではなかろうか,と思った.由布島はかつて小学校もあったのであるが,戦後の強烈な台風で一度水没し,全島避難したのち,観光開発がなされたらしい.水牛30頭余りはローテーションを組んで毎日23頭が出勤する.朝と夜の一日二食で何回も往復できる水牛に敬意を払った.周囲2km足らずの島を抜けると,すぐそばに「ちゅらさん」で有名になった小浜島が見えた.しばし潮騒の音に身をまかせ,静かな海を見ていた.昼食は「唐変木」という店でゴーヤチャンプルー.後から来た客に店の人が「すいません.ご飯がなくなったので,ソーメンチャンプルーかソバしかできないんですが」とことわりをいれていた.あとで石垣のタクシーの運転手サンに聞くと,「島にオフシーズンはない」とのことだった.
その間,チャキチャキとツアコンの二人は,ゆっくり起きて,ホテルのビーチでボーッ海を眺め,危うく寝てしまうところを無理やり起きて,ケーキ食べ放題に挑戦し,それに飽きると,焼き物の窯元に乗り込んで手ひねりで作陶に励んだそうな.何もしない,という決意は,かくもたやすく壊してしまう何かが南の島にはあるのかもしれない.
二日目の夕食は八重山料理のコースを食したるのち,ライダーの案内でシャトル,還暦,ツアコンの4人が「琉歌」というライブハウスに出かけた.お坊ちゃまも同行したが,「夜の石垣市内を探索する」といって別行動.常にクールである.がしかし店は沖縄でいう夕方8時にならないと開かないということなので,各自が自由行動に移った.還暦氏は『頼まれた酒を買いに行く』と酒の激安店へ.ところが送り先の住所がわからず頼んだ本人に電話で住所を聞いているのを聞いていると,どうやら相手は酒豪の「姫」らしい.シャトルは,初日にタクシーの運転手サンから聞いた古本屋を訪れるが,まだこの時間では開いていない.しかたなく新刊書店に行くと,国際通り球陽堂に劣らぬ品揃えに,頬が緩みっぱなしになったまんま,止せばいいのに『竹富町史第12巻資料編戦争体験記録』厚さ6cmを購入して喜んでいた.旅先で重い本を買うなどというのは,殆どビョーキであることを本人は自覚している.さてその先の顛末であるが,ネェーネェーの打楽器とお囃子,ニィーニィーの見事な節回しと三線に聞き入ったことは言うに及ばず,従業員のお兄さんは大和から来たってすぐにわかるんだろうなぁ「どこから来ましたか?」と聞くので「千葉から」と答えると「エッ千葉のどこですか?ボク新松戸にいました」というので,とても仲良くなり,飲めば飲むほどにオリオンビールのような爽やかさと泡盛の気持ちよさが体を吹き抜けていて,「安里屋ユンタ」を見よう見真似で踊り,ラストのカチャーシーでツアコンいわく「壊れた」シャトルは踊り狂ったのであるが,それは他の3人も同じであった.この時,一人のオジィー(推測するに近所の民宿の主)の手さばきは素晴らしく見事であった.堂々としていて,とても真似できない何かを感じたのであり,それは思うに石垣の風土と歴史が積み重なって見についたDNAのなせる業かもしれぬ.
短い時間に次から次へとさまざまなカルチャーショックを受けつつ,宿で飲みなおしながら,つくづく思ったのであった.『あまりにもディープだ』
「季節はずれの台風に見舞われて,空港から飛行機が飛び立ちません!」あるいは「地震で滑走路に亀裂が入り,当分の間帰れません!」もしくは「ホテルがテロリストに占拠されて閉じ込められました」と学校に電話をしている自分自身を夢想していたのだが,そんなことはあるわきゃなく最終日を迎えた.
みな思いは同じく<帰りたくないよぉ~>という顔をしながら朝のバイキングを食し,ツアコンの手配よろしくワゴン車を借りて,石垣島一周のドライヴに出かけた.運転手はライダー.もちろん前日のうちに下見は済ませていたので,狭い島内とはいえ渋滞を避けつつ,一回は袋小路に迷いながらも快調に飛ばした.沖縄本島とは違い,あちこちに水田が広がり,広い牧草地に美味そうな黒い石垣牛が草を食むなり寝ころがっている風景の中を北部海岸へと向かった.
石垣島第一の観光地川平湾である.ツアコンによれば,前日乗ったタクシーの運転手さんが「曇っても雨でもこの美しさは変わらない」と言っていたそうだが,その言葉に偽りはなかった.絵はがきのような風景を展望台から見て,しばし写真の撮り合いになった.そういえば小娘は,デジビデを回しつつ,デジカメで撮り,さらに写メールで激写していた.忙しい人だ,というより教材作成の執念を感じた.展望台の奥へ向かうと,まるで罠を仕掛けたように「石垣島黒真珠センター」なる建物があり,ここで長い時間を過ごすことになった.女性人が何を買ったかはわからないが,シャトルもカミさんの土産に買ってお赦しを請うことにした.黒真珠貝を使った髪止めである.
さらには車は東海岸へと向かった.「米原キャンプ場」周辺は,戦後の一時期に沖縄本島からの移民が開拓した地域である.沖縄戦終了後,サイパンの移民から引き上げ読谷や嘉手納の自宅で農業をしようとしたら,今度は米軍に追い出され,石垣島に開拓農民として移り住んだのである.海岸以外は密林という原野を相手に,木を伐り,根っこを抜いて畑にし,冷害や台風に悩まされつつパイン栽培でようやく安定を迎えたという歴史を有している(森口豁(かつ)『旅農民のうた』に詳しい).さらに本土復帰後のリゾート開発による本土資本の土地の買占め(農民の追い出し)や,マラリヤとの戦いなどを想起しつつMDで聞いた『島唄』を聴いているうちに不覚にも涙を催した.
玉取崎展望台も美しかった.この海は照屋正規(てるやせいき)サンという海人(うみんちゅ)が鮫に咬まれて一命を取りとめた場所である. 9歳で口減らしのために海人に売られボタンの原料になるタカセ貝を採る仕事の最中にシロザメに咬まれたのである.いま72歳の照屋正規サンは辺野古(ジュゴンが棲む普天間飛行場の移転先)で一番の漁師である.その個人史は沖縄フリーク小林照幸サンの『海人』に詳しい.そんなこんなの下調べのせいか最後の日のドライヴは,八重山の多様な歴史をこの目で見て深い感動を覚えたのだった.
いよいよ締めである.各自お土産を買い込み,シャトルは「泡盛中毒」Tシャツを買い,小娘は荷物が二倍になり, 1時にホテルをチェックアウトして市内の『金城』という焼肉屋へ向かう.最後に,神は我々に微笑みもうた.開店セール共催中でこの日まで(!)カルビとロースが半額で生ビールが90円なのだった.みな笑いながら食した.牛肉は本来のうま味たっぷりで,石垣の塩を少しだけつけて食べる方を,シャトルの舌は喜んでいた.食べ終った時,真に「八重山の旅」が終わったことに気がついた.
こうして,2泊3日の短い八重山巡りは終わったのであるが,反省点をいくつかあげておきたい.その1・計画を立てて予約を入れておこう.カヌーでマングローヴ探検をする時も,レンタカーを借りる時も,夕食を摂るのも予約がデージということがよくわかった旅だった.その2・2泊3日は短い.もう一日リゾート気分でゆっくりと過ごしたかった.はやくリタイヤできないかな,と心底から思ったのだった.
追伸・これにて学年通信を終わらせていただきます.永い間のご愛読に感謝します.ある先生が仰った「この学年は学年通信という言葉の力で生徒を指導できた学年でしたね」という言葉が最高の評価だと思っております.謝々.
3月11日(木) 3月12日(金) 3月13日(土) 学年通信
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